蓑虫

蓑虫の父と鳴く

 桜の木は大変毛虫が住みやすくて、そしてまた、虫に弱い木てす。

 一度出た青葉を食い荒らされますと、秋前になって新しい新葉を出します。この新しい葉は来年の葉なんだそうですが、秋の養分を貯えないと冬を越すのに困るので、急いで来年の葉を出して間に合わせます。そうすると花芽を作る作用が出来なくて、来年は花が咲かないそうです。だから今年葉は大切にしてやらなければなりません。

 今年は花が咲いてすぐに、十センチ四方もあるクモの巣のようなかたまりが木の股のところに出来てそれが毛虫の巣だったんで主人と薬かけをしたのです。早く見つけるとこれだけで済みますが、この毛虫が何万と巣から出てしまうと、それこそ大変です。何回となく薬剤散布し、その間あいだに主人は手で採っています。これを十分にしてやりますと、それこそ春にはみごとな花が咲くのです。

 蓑虫の父、ちちと鳴くのは、秋もことのほか哀れにて、などという文句があります。私も誠にさほどに感じ、枝を上下する蓑虫に家を背負うけなげな姿に、世の哀れを風流を感じていたものです。ところがある年、一本の桧に鈴なりに蓑虫がぶらさがったんです。

 「そんな感傷的な事言うて、同情してた事には、木を枯らしてしまわんならんで」と主人が申しますので、二人で一生懸命採ったのです。それでも脚立や、梯子でも先の方一メートル程採れなかったのです。とうとう桧はそこから上だけ枯れてしまいました。

 蓑虫は二ミリ位の大きさでも、ちゃんと蓑を着ていますし、樟につく時は樟の葉を、柿の時は柿、桜の木には桜の葉の蓑をつけます。

 バラや雪柳には、貝殻虫がつきます。たわしで洗ったり、手で捻り潰したり、薬もかけます。椿類や大体に堅い葉は虫に強いのです。一度、椋の木の天辺の方に毛虫がついて、その毛虫が下の木に落ちて来るのです。椋は下枝を伐り払っていますので、下の桜や小さい樟などに毛虫が落ちて来て、撲滅するのにとても難儀をした年もあります。

 むかし、仏教の修行をする為に、わが家を放蚊亭と名づけて蚊に刺されっ放しにして行をされたお坊さんがあったのですって、偉いですね。一恵園ではそんな殊勝な志はありません。蚊、蚊で因っています。裏へ出て体操するのにも、草引きをするのにも、二つも三つも蚊取線香を持ち歩く始末です。

 新樹の間に座して独り満天の星を眺めるなあんて雄大な詩も夢も持つ事などは、とても出来ません。夏の夜の一恵園は虫達の天下です。

愛のおあまり

 厨(くりや)に立って、菜園で出来た茄子を焼いて夕食の仕度をしているうちに、ふっと愛の行方≠ネんて文句が頭の中に浮かんできたんです。

 人それぞれに十の愛情があるとしたら、主人ももう夫でありお父さんであり、お互いに愛を確め合うなんて年齢をとおに通り過ぎて、何となく「つう」「かあ」で間に合うし、こどもも昔流にいえば人生五十年の半ばの年になって、ああだこうだとかまい過ぎると、過保護だといって叱られてしまいます。私のあり余った愛の行方は、いまどんな事になってるのだろうなどと、われとわが心の底を、ちょっと覗いて見る気になったのです。

 深い深い井戸の底の暗い心の深淵を覗いて見ると、清い冷たい愛の泉がちょつぴりキラキラと、どこから光がさすのか輝いていずれにか流れているようです。全身全霊の愛を注いできたこどもにも、もう二分位の愛でいいし、こどもの小さいころはつい忘れがちだった夫でも、いまは二分位でいいし、戦後の裸一貫生活への身を捨てての努力も、もう必要がなくなった。

 そうです、頂度私の愛の泉にゆとりができてきたときに、やお文化協会が結成され、「河内どんこう」が発刊されたのです。念ずれば道おのずから通ず、なんて言いますが、別に念じたわけでもないのにいかなる神のお導きにや。私は素直に自然に家の敷居を一歩踏み出して「生まれた土地植松の為になる何か」と考えるようになったのです。

 これもいわば残りの愛の行先の、ひとつの場所であったのかと思われます。こうして一歩足を踏み出して見ると、世間は広いですね。次はあれをしよう、植松より一歩大きく隣へ。そして踏みはずさないように大地に足をつけて、自分の立っている場所を確めながら。自分の立っている足元がグラついては、溺れかけている人に手を差しのべて助ける事など、とても考えられないことです。

 愛とは己を修め、家をかため、そのあとで一歩外へ踏み出すべきものではないでしょうか。

 一度立ち止って、自己の中にある愛の行方をじっと見つめ、心と語り合い、この道を行ったら間違いなく愛に叶(かな)った行方かな、と確めてみるのもまたいいものです。

 老いて用のなくなった愛のお余りを、世の多くの老人方は、どういうふうに使っていらっしゃるのでしょう。

暮れ六つの鐘

夏。夕立や雨の少ないときは、一恵園の大地に生えている草木にも水遣りは大切な仕事です。夕方主人がホースを持ち、私がときどきホースを動かしたりして手伝ってなどいる時に、ゴーンと静寂(しじま)を破って、野を越え、家々の屋根を越え、ホースの水をくぐって鐘の音が聞こえて来ます。

 「ああ、お太子様=大聖勝軍寺=の鐘が鳴っている」

 「暮れ六つの鐘やなあ」と、それぞれの心に思います。

 夫がどんな感慨を受けているか考えてみたこともなく、自分が自分の心に感じる思いを通してのみ、人もそうではないかくらいに、漠然と推し量っていたものです。

 ところがある日、主人が私に語ったのです。

 「野良で畠仕事をしているとき、夕方になって疲れも出て来るし、腰も痛くなってくる、西の空が赤く染まり、やれやれ日が暮れたなあと腰をのばす、頂度その頃に勝軍寺の暮れ六つの鐘がゴーンと響いてくるのや。あの鐘の音を聞くと、俺の目の前いっぱいにミレーの晩鐘の絵がひろがってきて、有難いなあ、とつくづく感謝の気持がわいてくるんや。極楽から聞こえてくる音のように思えて」と、

 「……」

 私は何とも返事が出来ません。鐘の音を聞けばまっ先に平家物語の「諸行無常の鐘の声」を思い出し、そしてすぐに、一句作れないかなあと現実的な自分に返る私。感じ方にも人それぞれがあるものです。

 愛にもさまざまな型があるように。愛にもし実質というものがあるとすれば、私は余りにも現実的な愛しかない女ではないでしょうか。物言わぬもの達に愛を注ぐのは主人の方です。これを、質のある愛とでも呼んでみましょうか。

 自分の机の上に晩鐘の栞と、同じくミレーの「羊の群をまもる女」と題された絵葉書をいつも置いて眺めているというのに、一度もお太子さまの鐘の音と、あの絵とをあわせて考えて見た事のなかった質のない女。

 この次お太子さまの暮れ六つの鐘の音が聞こえてきた時には、私一人でも胸に掌を合せて、ミレーの絵の夫人のように夫と向き合った気持になって、今日一日の倖を敬虔(けいけん)な気持ちで感謝し、そして地上の平和を目に見えない天地万物の神仏に祈りましょう。

 日本の梵鐘(ぼんしょう)は地の底から響いてくるような気がします。いつかはきたる可き終(つい)の日に、安らかに地上に横たわれる波のような子守歌の響に似ています。その響の波に送られて、行きつくべき楽しき旅を、西方浄土へ。空に鳴る鐘と地上を這って来る鐘の響と、西欧とアジヤの、物の考え方哲学の違いがそこにあるのではないでしょうか。

待てど暮らせど

 月見草、月見草ってよく言いますが、月見草って白い花が咲くそうで、宵待草とは全然違う品種だそうです。でも私は、月見草も宵待草と混同して宵待草を月見草だとも思っています。

 植松の労働会館分館で行われる夏期講座の文学教室で、太宰治作の「富嶽百景」という勉強があったのです。その中に「富士には月見草がよく似合う」といった一節があって、この文章だけを私は覚えています。余りたいした生徒ではありません。しかし主人もそこのところを覚えていたのでしょうか、ある日、大和川の河原から宵待草を一本引いて来て、一恵園に植えたのです。

 宵待草って一尺から二尺位の背丈にのび、その先の方に黄色い花を一、二輪つけて、河原一面に咲いているのです。そんな光景を月見の頃によく見ますから、花も勝手に想像していたのです。ところがあにはからんや、のびるのびる、太る、のびる、二メートル以上にもなって沢山の枝が出て、たくさんの蕾をつけたのです。

 夏の暑い夕日が沈んで、俳句では秋の季節、六時半から七時頃にその花が開きます。

 「おーい、花が開くから見においで」と呼ぶ主人の声に、いつも夕食前後のいそがしい時で、ついぞ花の開く瞬間を見た事がないものですから、急いで行きますと、花ってひどく力強く開くものですね。

 萼(ガク)が少し弛みはじめ、数秒後には、萼が音をたてるのではないかと思うほど、パシッと勢いよく反対側にはじきます。それから、みるみるうちに花びらを開いてしまいます。一本の木に何十もの黄色い花が、動きつつ開いて行くさまは実に見事であり、生きている力をまざまざと見せつけられる思いです。

 このように力満ちみちて開く花を、誰がむしり取る事が出来ましょう。われわれ人間と同じく生きているのです。そして私どもを感激のるつぼに浸らせてくれているのです。

 次の日の朝、昨夜咲いてもう朝日にしぼむ一夜花を、私は丹念に取って全部捨ててやります。昨日の花が勝手にちゃんと落ちればよろしいが、落ちこぼれができると、残骸(がい)が見苦しいので。この花は、ホロリと軸がもろく折れて、見る目にとても気持のよい去り方をします。そして誰さんも彼さんもいらっしゃいと、夕方になれば呼び歩いて、花の開く神秘なひとときを、ともに観賞させてくれるのです。

 待てどくらせど来ぬ人を、宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな

 この詩のように人は皆、何かを求めて生き、そして空しく去って行くのではないでしょうか。


総目次、 ああ殺虫ゲーム 蓑虫の父と鳴く 愛のおあまり 暮れ六つの鐘 待てど暮らせど 吾輩は緑平でアル