秋灯下

形見の桜におもう

 昭和五十三年、ことしの桜は十日満開。去年の一日満開というのは、とても異常だと思います。今から考えて見ますのに、この年の奈良のお水取りは大変暖かだったのです。どうもこの奈良のお水取り頃の気候が、桜の開花に影響があるのではないかと思います。

 話が後になりましたが一恵園には桜の木が八本あります。二本は前に記した通り、後の六本は六年前の三月二十七日、泉佐野市栄町四の一、森嶋画伯さん方へ伺って、戴いて来た十本のうちの六本です。

 この数日前、画伯が毎年何十本かの桜の苗木を、欲しい人に無料で頒っていられる由、朝日新聞に出ていたんです。早速葉書で問い合わせ致しましたところ、取りに来い≠ニの事なんです。

 物好きな女ですね私も。天神さんで、また買って来ればいいものを、女ばかり四人で泉佐野の森嶋さんまで、わざわざたずね訪ねて出かけたんです。のこのこと。

 そして家人の方から十本頒けていただき、いささかの御礼をして帰りました。世にいう、「無料(ただ)ほど高いものはない」の例えに洩れず、汽車賃、昼食、お茶、買うより高くついたものです。でも私は、この十本は森嶋さんの御好意で、ただで戴いたものと信じています。

 このうち一本は、大聖勝軍寺、お太子さまにあります。どうなっています事やら。同行者に一本ずつ差し上げ、残り六本が一恵園で、またぼつぼつ花が咲き始めています。

 このときの森嶋画伯は、次の年に亡くなられた由、新聞紙上に拝見して、どのような方かお会いはしなかったけれども、形見の桜になったなあと、人の世のうつり変り、歴史の重みを感じる事や切です。

 庭園と名のつく所は、落葉樹は余り植えられません。落ち葉の始末が大変だからです。でもある日、パッと花が咲き、暮れなずむ夕日の淡い光の中に、薄ピンクの花が雲か霞(かすみ)のように、ぼんやりと漂っているさまは、清き乙女の夢のようです。そして一夜の春の雨に、ヒラヒラと散って、今度は土の上に白い落花の花が咲きます。時に緑の苔の上にはかなき筏(いかだ)を浮かべたように。

 やがて黄緑の葉が出て、濃緑となり、そして秋になれば真赤に紅葉します。秋の夕日に照る山もみじの歌のように、夕日に反射する紅色は、人の心をも燃え上がらせます。熱き恋を、雄々しき勇気を、そして吾が命を。

 人生に敗れ、希望を失い、自己を見失って、自殺を急ぐ青少年諸君に、君達がもし自然と対話する事が出来たならば、決して自然は君達を裏切らず、如何なる試練にもさからって生きて行くという大事を、自然の力を、教えてくれる筈だと、私はしみじみ思うのです。

 土の上に真赤な血のじゅうたんを敷き、川に真赤な筏を流して、また来るべき春まで、桜はじっと冬の去って行くのを、ただたえるのですから。

樟に寄せる愛情

樟(くす)、何て重みのある言葉でしょう。樟と言えば、渋川神社の神木が頭にあります。だから樟と言えば、尊いもの偉大なもの、とてもとても手の届かない所から、見おろされているもの、その後生長してから知った元善光寺の樟、玉祖神社の樟。どちらを向いても樟は、私の手より遠く離れた、神のような存在だったのです。

 一字一字、文を綴る事に必要な技巧とか、芸術的な発想とかを、私は持ち合わせておりません。だから、樟をどのように感しているかと言った表現など、とても出来そうにありません。ただ一人一人がこの木の前に一度立って見るべきだと思います。

 私が一番最初に樟との出会いを持ったのは、昭和四十年の四月六日です。

 この数日前、八尾本町の慈願寺さんの庫裡の建替に当たって、南側の土地三百坪を売却される事になったのです。いま八尾木材KKさんの、展示場になっている所です。ここに一本の大きな樟があったのです。私の実家が慈願寺の壇家だった関係で、この木が伐られる運命にある話を兄から聞かされたのです。伐り捨てるのはいと安い、これ程大きくなるのには、幾ばくの歳月を経て来た事でしょう。救えるものなら、どうにかして生かしてあげたい、主人と相談の結果、私どもでいただく事になったのです。

 もちろん、私どもにそんな大木を植える所がありません。思案した掲句、その頃移築されて、余り木のなかった龍華小学校へお願いして、校庭に植えさせていただく事になったのてす。

 前にも申しましたように、無料(ただ)ほど高くつくものはありません。植木屋さんに頼んで五、六人もの人手で掘り起こし、根巻きしてクレーンでトラックに積むまでがひと苦労です。警察の許可をいただいて、やっとあの日に、小学校の校庭に植えました。いいお天気の日でした。

 いつかこの学校を巣立って行くであろう生徒達の、夏のこよなき日蔭、冬の寒風にき然と立つ姿、などなどが思い出となり、心の糧となって、豊かなロマンが残るであろう事を祈りつつ。

 ところが二年程して、この樟は枯れてしまい、根元から二メートルの上で切り倒されてしまったのです。学校の先生方にも、大変な労力をおかけしてしまって、済まなかったと後で思っています。

 その後、主人が学校の横を通りまして、あの樟の切り口の外側の皮の間に、ぐるりっと丸く若い芽が密生しているのを見て、ハサミを持って剪定に行って来たらしいのです。

それで今一本だけ、直径十センチ、高さ数メートルに伸びて居ります。木にも愛情を注げば、ちゃあんとそれに答えてくれるものです。

 歳を取り、火事に会い、切られたり、さまざまな苦難を通り抜けて、しかも過去の栄光の上に、樟はしっかりと根づいています。

樟と短歌と情熱

 一恵園の樟(くす)はどうして生えたのでしょう。気のついた時には、のこのこのこのこと、あっちにも、こっちにも生えていたのです。春になると、黄緑の新芽、茶色、金茶、えんじなど、さまざまな新芽が出るので樟にも色々な種類のある事を知ったものです。

 そうそう、こんな時もありました。八年前の十一月二十二日、八尾市史蹟ハイキング。多分この時の事だと思います。八尾市の史蹟巡りには、はじめから参加したのですが、主人と二人の参加の時で、山畑の道をくだっていた時だと思います。小さい神社の前で、力石などひっくり反っていてそこで休憩したんです。割に大きな樟が二本あって、私はポカンとしていたのですが、主人が「たくさん実生が生えてるな、二、三本貰うて行こか」と言って確かにその時いただいて来たのもあると思います。

 樟も成長がはようございます。狭い庭に、ごちゃごちゃと植えるので、成長して来ると、やっぱり過密になるので、あちらこちらに貰っていただきます。 渋川神社も、昔はうっ蒼として足もとには熊笹が密生し、参道の外にはなかなか入れなかったのです。それが、まず西側の笹が刈られ、東側の笹が刈られて大木の根が保護されなくなり、こどもの遊び場となって、いよいよ大樹の受難時代が到来したのです。昼なお暗い大樹の梢を見上げては鳥になって飛び廻る夢を見、高い木の上に人間の巣を作って、時にはターザンのように住めればいいな、などと皆一度は考えたのではないでしょうか。もちろん、神木の樟の所へなど寄りつけません。フクロウが住みついて、夜になれば鳴き声が植松中に聞えたように思います。

 それが戦後荒れに荒れて、近頃ようやく植樹されたり、木を大切にと、張り紙されたりするようになったのです。 そこで早速樟を何本か、渋川神社に植えさせていただいたんです。昔、私は毎日のようにお宮さんに出かけて、市川稲荷大明神の山に腰をおろして西方浄土に夕日の沈むのを眺めたものです。右手遥か大阪城、左手に善良寺さんの大銀杏のその中央の海の果てに真赤な夕日が沈むのです。

 そのころ女学校の先生に、アララギ派の和歌をなさる方があり、私もいささかかぶれていたんです。でも初心の私には、この雄大な自然の眺めを三十一(みそひと)文字になんか写せるはずがありません。歌なんかより自然の方が、なんぼうか素晴らしい、おおこの自然の偉大な景観よ、なあんて私はあっさりと、この時から和歌を捨ててしまったのです。いとも簡単に。

 若き情熱の炎を胸に沈め去ったまま何十年、この頃は荒んだ傷をむき出しにしたお宮さんへ、毎月一日と十五日だけお参りします。お参りする度に、植えた樟はどうしてるだろうと眺めます。一年後一本は、折られむしられて、とうとう根ばかりになって枯れ果ててしまったのです。ここでキャッチボールをする子、木を愛する心の乏しい子、せめて家に小さい木でも、草花でも鉢に植えて、愛という事が、どれ程大切な事であるか、一本の木を愛する事がやがて吾を愛し、親を愛し、社会を愛する事の出来る子に、成長するのではないかと思います。愛のない社会なんて暗黒です。


総目次、 ひとの世に絶えてサクラのなかりせば 形見の桜におもう 樟に寄せる愛情 樟と短歌と情熱 薔薇嫌い≠フ弁