小春

つらつらつばき

 昭和四十六年五月一日〜三日、日本ボーイスカウト連盟八尾第三団BS隊 三重県霊山寺キャンプ 二日夕刻、井上さんより電話

 「奥さん、霊山寺はほんとうにいい所ですよ。明朝、私が迎えに行きますので、奥さんを、『その車に乗せて連れて来てやって下さい』との、ご主人のことづてですねん。一緒に行きましょう」「私、この頃余り健康がすぐれませんので」「大丈夫です、空気がようて、景色がようて、枝垂椿がようて、いっぺんに病気なんかとんでしまいますがな」

 「それでは」と、余りすすまない気を、皆様のご好意に添わなければと、三日朝迎えの車で霊山寺へ行ったのです。霊山寺は山の中腹にあり、人里に遠く、山の霊気がこんこんと水と共に沸き出で、空はあく迄も青く、ほん頭の上にあるように、近く見えるんです。真赤な枝垂椿が、崖の上から地上へ咲きさがっています。この時の実生を「霊山寺のしだれ椿」と呼んでいます。

 巨勢寺のつらつら椿つらつらに見つつ思はな巨勢の春野を、大宝元年坂門人足(巻一―五四)

 川上のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は、春日尼(巻一―五六)

 万葉の歌人は、どうしてこう口あたりのいい、つらつら椿つらつらになんて、続けるのでしょうね。実に舌頭にころがり、耳に音楽の響きを持って聞こえるように、詠まれた気がします。

 此の頃の事などと、偉そうな事は言えた義理ではありませんが、一寸読んだだけでは分からない文や、詩句俳句、文字を弄んでいるような、いえいえそんな失礼な事を、ほざいてはいけません≠れわれ凡人には、殊更に難しく、判らない字句を選んで、作られているように、思えてなりません。

 明日香古京を守る会より、水泥古墳群―権現堂古墳―巨勢寺跡等見学行に参加したのは、四十八年四月十四日の事です。

 巨勢廃寺跡は、水田の中に一段高い台地で、中央に小さい祠が在り、その前にあった大きな礎石の窪みに、赤い椿の花が一輪浮かんでいて、千三百年昔に戻った感じになったものです。この時の実生の椿を私どもでは「つらつら椿」と呼んでいます。

 植松の郷倉屋敷の北口を左に曲る角に、春が来ると赤い椿の落花が道を彩ります。この足元の落花を見て、「ああ、また今年も咲いているな」と上を見るのです。「咲いたよ」と呼びかけられているように、花と顔を見交して、無事に生きている喜びに、心がときめきます。いつか友達と一緒の時、その友達も私と全く同じ感懐を話してくれたんです。花は無言でも、どれだけ多くの人に語りかけてくれている事でしょう。ここも古い一軒を毀って、六軒長屋に変っています。でも地主は、この椿と槇の木は切らずに残して下され、その実生も私の庭に、「落ち椿の君」として育っています。

一人静≠ノ思う

「昭和四十五年五月十一日、十二日、帝釈峡行。

 前日まで雨が降っていたので、夕方切符を買ってから、やっと行く決心がつく。

 十一日晴天、久しく見た事のない、高い高い空、生まれたばかりの小鳥の羽毛のように、濡れた柔かい金色の若葉、雨上がりの木々は、うれしさに、木の中を突抜けて来る水脈に、踊り狂っているようです。美しい水の流れ、肺の汚れも取り去られ、途中藁草履を買い、下駄を担いで白雲洞へ。」

 これは帝釈峡行きの、覚え書きの一節です。鐘乳洞である白雲洞を巡って、外に出て来て、だらだらっと川添いの道におりる、とその途中に、「一人静」という立て札があります。私は突嗟にしゃがんで、手で掘り起こそうとしたのです。同行の姪が前にかがんで来て、

 「おばちゃん、守衛さんがこっち向いたはるよ」と言うのです。私ははっと我に返って、手を引っ込めて振り返ると、守衛さんがにこにこと笑っていられます。姪と私が大変珍らしい草花を、熱心に眺めている?とでも思われたのでしょうか。

 今を去ること四十年昔、私が女学校を出て二、三年経た頃でしょうか、ある日一冊の小誌が送られて来たのです。薄茶色の表紙に「一人静」と薄く墨書され、そして更に薄く、一人静の絵が浮いて見えていました。

 「一人静」という花の名さえ知らなかったのですが、表紙の見開きに、「一人静の花の香りを」という文句が書いてあって、多感な乙女心の甘いロマンの琴線を、春風の如く揺り動かして、通り去って行ったのです。

 関西線平野の平野に、つつましく、爽やかに暮らしていられる柿妹が居られました。

 丁度姉さんが五年生、妹さんが二年生に進級された時、ご姉妹の両親が相次いで亡くなられ、妹さんが退学され、姉さんは妹さんに助けられて、女学校を無事卒業されたんです。この妹さんと私は同級だったのです。

 姉さんと違って、丈夫だった妹さんが、数日の病いに、日々何十キロかの氷をとかせ、姉の手厚い看病にもかかわらず、ついに四十度の熱をさげる事が出来ず、死亡された由、お姉さんの涙の一文が、この小誌「一人静」に綴られていたのです。たった一人の肉親を亡くされた、姉さんの心を察して、一度も同し組にならなかった私も、同じ河内の女として、熱き涙をこぼしたものです

 何十年を経て突然目の前に、一人静の花が現われたのです。私の脳裏の中に、熱き涙と共に眠っていた、薄倖な一人の友の面影が、いま突然この花となって、この世に甦って来たのです。万人の為に植えてある花を引っこ抜くなんて。現実にひき戻された私は、帝釈川に添った道を、下駄を担いでとぼとぼと歩いたものです。半日この川のほとりを歩いて、とうとう一人静をひと株、一恵園に移植したのが、毎年桜の花の咲く頃に、落葉の下から芽を出して、ひっそりと花を咲かせる淋しい花、一人静なんです。そして此の花が咲くと、一人静の花の香りを、私に送って下さった亡き人と、音信不通のお姉さんを思い出すのです。

椋のある風景

 椋の木って、随分急いで大きくなるものですね。この木の実がいつ、どうして、どこから、ここへ運ばれて来たのか、はっきりした年は分かりません。

 でも昭和四十年以後である事だけはたしかです。私が草ひきをしていたら、きっと草

と一緒に引っこ抜いていたと思います。この椋にとって幸いだった事は、主人が草取りをしていてこの三センチばかりの実生を生かしてくれた事です。

 少し大きくなった時、主人が木を保護する為に石を二、三個並べて、

 「去来(向井去来・蕉門十哲の一人)の墓みたいな石やな」

 「そうですね、貴方の墓に彫ったらどうです」なんて話しながら置いたのに、アレヨアレヨと思う隙もないうちに、いつの間にか屋根よりも高くなり、十二、三年を経た今、根元の廻り一メートルを越す大木に成長したのです。去来の石も根石になり果てています。

 春には一斉に若芽を出し、夏は涼しい木蔭を作り、秋には濃紫の小さなブドウの粒が、枝もたわわに実ります。椋鳥が来、鳩が来、終日賑やかな事です。少し大風の吹いた後など、道に落ちた実が踏まれたり、車に轢かれたりして、アスファルトを紫紺色に彩ります。そしてある朝、その一葉が、ひらひらと、どの木の葉よりも、さきがけて落ちて来て、今朝の秋の詩情を、しみじみと味あわせてくれます。

 さあそれからが大変です。この落葉の量の莫大な事。庭は勿論の事、屋根といわず道といわず、とゆの中まで落葉がつもります。だから私どもの家のとゆは、つまりっぱなしで、大時雨が来れば、あちらもこちらも大雫、戸を伝う、壁を伝う、それはそれはお見事な音と眺めです。私は窓から首を出して、この大雫の川に落ちる音や、大小さまざまな波紋を描いて、流れて行く自然の妙を眺めるのも、一つの楽しみなんです。

 とうとうたまりかねた主人が、「こんな雑木伐ってしまう」と申します。こどもと私とが、「伐らないでー」と嘆願していますので、今のところまだ命を永らえています。

近所の人がいつか、通りがかりにこの木を見て、「まあお宅に、こんな大きな木がありましたのか」とびっくりされた事があります。

 たった十数年で育ったなんて、とても思えません。横に川が流れていますので、その泥水を吸って、ブクブク太ったのでしょうか。

 植物は独り者の所より、仲の好い夫婦の家を好むそうです。そして音楽はジャズよりもクラシック。仲の好い夫婦って所は、ちょつと疑問がありますけど、まあまあ老?夫婦健在、こどものクラシック好きも、幸いしているのではないかと思っています。

ひとの世に絶えてサクラのなかりせば

 枯木にある日、忽然(こつぜん)と花が咲く。花咲か爺さんが灰を振り掛ければ、パッと桜が咲いた、あのままに桜の花が開きます。

 桜は、ひと重をもって最高と思います。私は花木の中で、桜が最も好きです。仰ぎ見る花、咲いたあと木にしがみつかない花、やはり大和撫子だからでしょうか。

 一年中の毛虫取りやら薬かけやらの労力は、四月の数日間の開花の為に、凝縮したようなものです。何の関心もないこどもでさえも、花が咲くと、何かそわそわして、

「お母さん、今晩ぼく花見するわ」など、言い出します。運悪く今年は雨だったのに、それでも家の中で花見、宴済んでから、

 「貴方達花を見たの」とたずねますと、

 「ああ見なんだ」

 ですって、次の日の夕方、主人が、

 「俺もこれから一人で花見をするわ」

 「へえ、貴方一人で」

 「うん」

と。

 徳利でお燗をして、自分で提げて行きます。

 「じゃあ私も」

 とこちらは、サラミやチーズを切って、いそいそと出て行きますと、「あれ!」一恵園は水銀灯などの電灯の設備がありません、暗がりと思っていましたのに、桃の木にランタンがぶらさがっているのです。「まあ!貴方も風流なのね、これ何ですの」

「ランタンやがな」

「へえ、こんなもんありましたん」

「ボーイスカウトの野営で使うんや」

「夢みたいな光ね」

 二人で酌み交す一杯の酒、貧しくっても、何と満ち足りた人生でしょう。猫の緑平がちゃあんと足元に座って、おすそ分けを待っています。

 この桜の、大きい方の二本を植えたのは、昭和四十四年三月二十五日、頂度川向うの春事、道明寺天満宮の菜種御供の日です。こどもが八尾高入学の喜びに、親子三人天神様にお参りし、桜の木を二本買って来たのです。三、四年生位でしたでしょうか、背丈より大分長かったように思います。それが五十年には、もう素晴らしい花が咲き

 「ええ花が咲いてますなあ、いっぺん花見さして貰わないけまへんな」

 との近所の方の声。主人と相談して、その日の午後、隣組の主婦ばかり十人程で花見をしたんです。ささやかな酒、ささやかなすしで。

 この時の満開は四月七日だったんです。

 一昨年は、四月十一日、それから考えて、昨年は、絶対に花見をしようと思って、前もって用意をし、友達に通知をし、四月八日と定めたんです。ところが、思いがけず四月一日に満開してしまったのです。私は木の下に立って、早く咲かないように、八日まで何とか持ちますようにと、毎日毎日熱心に掌を合せて祈っていたのです。そんなある日、

 「お母さん春の心はのどけからまし≠竄ネ」

 ってこどもが言うのです。

 「そうやね」と私

 「分ってるのか」

 「分ってるわよそんな事ぐらい」

 「ほんまかなあ、ほんなら言うてみ」

 「何を」

 「やっぱり分ってへんがな、人の世に絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし≠竅v

 「へえ、貴方そんな、粋なこと知ってたの」

 「当り前や」

 不意に言われて、歌のことなんか全然気がつかなかったのです。花のことで私がどれ程気をもんでいたか、心ない男の子にさえも気づかわれていたのだと、この時ほど切実に、この歌を味わった事がありません。八日はほとんど花が散って、桜は赤い芯ばかりになっていました。


総目次、 花無心蝶を招く つらつらつばき 一人静≠ノ思う 椋のある風景 ひとの世に絶えてサクラのなかりせば 形見の桜におもう