のーせんぎょ

のーせんぎょ 「もう髄分長い間、のーせんぎょ、しやはれへんね。」

「お母さん、のーせんぎょ、て何や。」

「今からずうっと前、お母さんの子供の頃、この辺で行われていた冬の行事、のーせんぎょ、五十年程も前の話よ、覚えてる事話しましょうか。」

 お正月の楽しみも過ぎて、一年中で一番寒い寒い大寒に入って、凩が枯れた野を走り廻り、虎落笛(もがりぶえ)が厳しい叫び声をあげる日が続くと、おがいろの、狐の、コーンケーンと鳴く声が、寂しそうに悲しそうに風に乗って聞こえて来るんです。

 おがいろ、って言われただけでも、何となく恐い響きがあるでしょう。そこはお墓なんです。骸骨が夜な夜な墓から外へ出て、踊っている様な幻影にとらわれて、背中がぞうっとして来て、もぞもぞと、大人の側へよくにじり寄ったものです。

植松から南の方を眺めますと、東西に延びている植松の村と平行して、奈良街道が東西に、その又南に大和川の堤が東西に走っているのが見えます。見渡す限り家なんか一軒もなく、大和川の堤まで満目荒涼とした冬野の中、奈良街道と大和川とのちょうど中間位に小さな小さな森が、こんもりと黒く見えます。その森が、おがいろの墓です。私が大人になって知った其の名前は「於帰(おかえり)」と言う夢に満ちた、やさしいロマンチックな土地の名称だったんです。

 そうした野面が凍てついて、動物達の食べ物が極端に少くなった頃、植松では、のーせんぎょ、と言う行事が行われます。

「於帰」や「野施行」と書く言葉が、土地の人の舌の先に乗って、口の外にころがり出た時には、おがいろとなり、のーせんぎょ、となるのです。

 大寒の中でも、取り分け冷え込みが厳しく、澄み切った空に五日月が凍てついた様に、見える頃になりますと、三、四人の村の世話人さんが集り、「野施行(のーせんぎょ)さして貰いまひょか。」と言う事になって、講中の人達が、三々伍々、定められた朝の九時頃から、米五合を持って、当番の家へ集まって来られます。

 買物係の人、代参に行く人、食事の用意をする人、施行米を洗う人、夕方五時頃になりますと、いよいよ小豆御飯が炊き上って来ます。洗うのも焚くのも握るのも、当日の仕事は全部男ばかりでします。

 手拭いの応急マスクをして、握ったお握りを、代参して書き出して貰った、「けんとく」さんの、数の揚げを、葉蘭で時には竹の皮に包んで、東西南北に分けて、餅箱に並べられます。餅箱の事をこの辺では、こうじゅうた、と言います。真実は麹蓋(こうじぶた)と書きます。

 もう日はとっぷりと暮れて、風は肌に痛く、けんとくさんのお住居は、特別さびれた所と来ていますから、考えただけでも寒々とするんです。だから三、四人一と組になって、東へ行く組、西へ行く組と、東西南北に分れて、代参書に書き出された場所へ、道を通る人には判らない様に、しゃっ、と置きます。そして置いたら、手を一度叩いて、けんとくさんに知らせます。土地の人達は、お稲荷さんと言いますか、お狐さんを呼ぶのにけんとくさんと言います。けんとくさん一家は、夫婦であったり、時には子供が生れて数が増えていたりします。

 代参書

  墨で赤い罫紙に書かれます。


西


けつね寄せ   やがてどの組も、どの人も、体中が凍てついて棒の様になって帰って来ます。帰ると、一同熟い熟い黒豆の入ったお粥を載いて、やっと人心地がつきます。

 その頃からいよいよ、護摩が焚かれ、「けつね寄せ」が行われます。狐寄せとは言わないんです。どうしたわけか、この「けつね寄せ」をされる方は、お婆さんに限っている様です。野施行の行事を行うのは、男ばかりですのに。

 白い行衣を着たお婆さんが、珠数を操り操り、摩可不思議な呪文を唱え乍ら、手を震わせ、畳を叩いて、いよいよ「けんとく」さんが乗り移って来られますと、車座に部屋を取りまいて座っている土地の人から、「どなたさんでっか?」と声がか、ります。最初に急いで出て来られたけんとくさんは、出口の橋の側の、一番人家に近い方で、「せっかく供えて呉れたんで、早速よばれ様と思うたら、よばれん先に、取られてしもたがな。」と仰言います。一同苦が笑い。

「えらい済んまへん、誰が拾うてしもたんや。」

「おまい置いて過ぐ拾ろうたんと違うか。」

お供えを早々と見つけて、拾ってしまう人があるんです。

 次々とけんとくさんが、出て来ては去って行かれます。狐山の近くのけんとくさんは、マッチ会社の、女工さんが箱詰をし乍ら歌う唄を、カタン会社の横の道の方は、カタン職工は生意気な、朝の早うから弁当箱提げて≠ニ陽気に歌いながら出て来られます。

 太子の水車の方は、カッタン、ゴットン調子を取り乍ら、油絞りの歌を唄い、棒で持って油を打つ恰好をなさいます。時には、「ウイ………………」とお酒に酔っぱらって、出て来られるけんとくさんもあります。

「えゝ御機嫌さんでんな。」

「ウイ………、一寸酔うてんねん、一杯ちょろまかしたんや、いつもようしてくれておゝきに、お礼に神輿でも担がして貰おうか。」「ワッショイ、ワッショイ、ワッショイ、神輿だワッショイ、其処どいた、ワッショイ。」

 お婆さんが、あっちへよろよろ、こっちへよろよろ、汗だくだくで神輿を担がれます。

中腰でいざりながら、車座のあちこちで、「おっと危い危い、こっちへ当りまっせ。」とお婆さんを押している内に、ワッショイ、ワッショイ、言いながら、そのけんとくさんは帰ってしまわれます。

 植松の西の端「コンペラーン」と人々が呼んでいる所に、友黒大明神様が、ずうっと居られます。植松の人達には、一番身近な友達に近い親しさを、抱いている方なんです。

「友黒やねん、いつも祀って呉れておゝきに、皆々ようしてくれるさかいに、この前の三つ辻では、子供も車も事故の起らん様に、守っているんやで、事故は起これへんやろ。」

「へえ、有難うさんです。」

「もし、皆がどこか余所(よそ)の土地へ行って、道に迷ったり、難儀な時があったら、三べん手を叩いて、友黒友黒友黒と三度呼んでんか、直ぐに行ったるさかいにな、背筋がぞうっとしたら、わしが行った証拠やで。」

 だんだん後に成る程、位の高いけんとくさんが、出て来られます。そしてお婆さんの震える手が、だんだん上へ上へと上って行きます。中腰になって、とうとう手は頭の上です。

「何処の何方(どなた)さんでおますか。」と問います。

「狐山の森高や。」

「ヘヘ………。」

一同何となしに位(くらい)負けして、頭を下げます。

八尾中の狐山 「今な、わしは友黒の所に居候してんねん。何せ此の頃の狐山と来たら、八尾中の生徒が頭を踏んづけて仕様がないんや、まあそれは辛棒も出来るけどな、小便をひっかけよるねん。これは臭いで、この匂いだけは我慢が出来んのでな、わしは、友黒のとこへ居候さして貰うてんねん。友黒は気が優しうて、ようしてくれんねんけどな、皆かて知ってるやろ、居候て片身の狭いもんやで。」「へえ。」こんな事もあって、明治三十七年八月、村の人達は友黒大明神の隣りに、森高大明神を、お祀りする事にしたんです。

 けんとくさんの帰られた後の、代参のお婆さんは、ドサッと蟇蛙をひしゃげた様に、疲れ果て、畳の上へうっ伏して死んだ様になられます。だから一時間半位でこの行事は終ります。

 けつね寄せの行事は数年に一度の割で行われたそうです。けつね寄せのお婆さんの口によりますと、渋川神社にお祀りしてある、市川大明神の佐代姫様は、大和郡山源九郎正一位稲荷大明神様の奥様なんだそうです。

 嘘か真か、真か嘘か、判らない一夜のはかない夢、草の香の風にさからいて行かぬ様に、せまり来る家並に追われて、けんとくさん一家は、今は何処にどうして住んでいらっしゃるのでしょう。けんとくさんのお住いの無くなるのに調子を合わせる様に、代参のお婆さんも姿を消して行かれ、昭和の初め頃は施行米七升五合も炊かれていましたのに、昭和三十三年一月より三升五合、昭和三十九年一月、一升六合、昭和四十一年一月二十八日を最後に、野施行の行事は行われていません。

 人々の心の中から、目に見えないものに施すと言う、暖い労りと思いやりある行いも、失われ消えて行く様な気がします。

 植松の東入口、西入口の両コンピラに祀られている、藤原大明神・友黒大明神様は、きっと植松の東西の出入口を守って下さっていた、土地の守り神だったのでしょう。

 コンペラアンと言う言葉?は又いつか。

 ゆうかりの花芯ににじむ青き蜜

 蔦かずら笹に枯れつく狐山

 寒の月丸く鋭く土を刺す


総目次、 序文にかえて 春ごと