七墓参り

七墓参り 「お早うございます。」

「お早うさん、御一緒させて貰います。」

 と、口々に挨拶し乍ら。

 八日七、今年は都合により八日二十一日、朝六時、河内七墓参りを志す人達が、植松晒墓地へ集まって来られます。

「お線香買いなあれや。」

「七束でっせ。」

「なんぼ払いまんのや。」

「さあて、と、一束四十五円やさかい。」

「三百十五円」

 新客はうろうろし乍ら、皆様の声の通りに、七束のお線香を手提袋に入れ、三百十五円を支払ってその内の一束に火をつけます。

 先づは迎い仏さんに線香を上げて、「無事参れますように。」と、大急ぎで、何分忙がしいのです。早い人はもう出発されます。

くっついて行かないと、迷子になりますから。

それから、「ぎおんさん」にお参りします。

どう云うわけか、行基菩薩開基のシンボル、一米何十糎かの立派な五輪塔を皆様は、「ぎおんさん」と、呼ばれます。七墓参りには、必ず、この行基菩薩開基の五輪の塔に参らなければなりませんし、必ずあるそうです。

植松墓地の五輪塔には、右の玉垣があって、正面の右の扉には、一対の菊の御紋が彫ってあります。その前に、大きな由来碑が建てられています。

 行基菩薩開基植松共同墓地由来

行基菩薩は幾内に多くの寺を建て、池を掘り橋をかけ布施屋を設けて仏教の布教と共に人々の苦悩を救った。当時相つぐ天災に倒れた数多くの人のため河内に七墓を造り厚く葬ったこの植松共同墓地も其の一つにあたり今に河内七墓参りの信仰が伝えられる。

 昭和四十九年八日吉日之建

右側にこの由来碑と、左に行基菩薩之墓と彫った石柱が建てられていますが、此処は行基菩薩の墓ではありません。

続日本紀、行基墓誌残闕によりますと、天平十七年より四年後(西歴七四九年)天平勝宝元年己丑二月二日、平城右京菅原寺(喜光寺)で死す。八十才、となっています。だからこの植松の五輪塔も、供養塔ではないかと思います。

塔には、梵字の一字も刻されていません。花崗岩の丈夫なもので、一七〇〇年よりずうっと以前のものかと思われますが、石の鑑定は私には出来ません。

迎い仏様の後ろ側に、昔は石の丸い蓮台が置いてあって、お葬式の時、死者の棺桶を、その右の蓮台の上に乗せて、お坊様が迎い仏様に向って讀経なされたものです。が、今は蓮台の上に無縁になられた古い石碑が集められています。その無縁仏様にも、お線香の供養を致します。

 植松晒の墓を後にして、関西線の踏切りを渡り、昔大和川が流れていた名残りの長瀬川を渡って、暫く川に治って上流へ。

 私実を言いますと、昔一度七墓参りをした事があるんです。

「何日だったかなあ。」と、

家計簿の摘要欄に、ちょこっと、その日その日の出来事を、書き込んであるのを頼りに、四、五年前からの、八日の項を遡りつゝ「まさかまさか、こんな以前ではなかった筈だがなあ。」と、

首をかしげ乍ら、探しておりますと、

「あったあった。」

昭和四十三年八月七日、「七墓参りをする。」

もう九年も昔になっているんです。月日のたつのは、真実に早いものです。当日はとてもとても暑くて、しんどかったものですから、「あゝあ、もう二度とよう参らんわ、きっと善い死様(しにざま)をようせんやろけど、仕様がない。」

そう言って、七墓参りを諦めてから、まだ四、五年だと思えますのに、一と昔と俗に言う十年が過ぎています。

 三十三回七墓参りをしたと云う、現在八十六才の元気なおじいさんが、其の時の御先達で、三十三回御参りした其の間、雨は、夕立が一度あっただけだと話して居られます。いつも三十人位のお参りの人数だった由ですが、私がお供をした四十三年は、そんな大人数では、なかったように思います。それはそれは暑い暑い日でした。

 それに引き替え、今日は何と涼しく、雲のある、好いお日柄でしょう。前の時は、八尾座から恩智まで、バスに乗りましたが、バスの時間待ちが四十分もあるそうで、歩く事になり、歩道もある広い舗装道路を、東山に向って歩いたのです。

  明け初めし恩智の山に立つ狭霧

 緑の山褐に幾条もの煙の上っているのが見えて、仁徳天皇が御覧になった、民の竈(かまど)ってこんな眺めかなあ、と思い乍ら、恩智出の夫人の案内を受けて、バスより早く七時過ぎに恩智神宮寺墓地に到着、早速袋から一束の線香を取り出し、

「ぎおんさんはこっちだっせ。」

の声に、迎い仏さん、六地蔵さん、無縁仏さん、とお参りします。

 此処の「ぎおんさん」は、鎌倉時代、今から八百年以前の作だと言われているもので、五輪即ち地水火風空の、物質構戎の五大要素を表し、一番下より地輪(方形)、水輪(円形)、火輪(三角)、風輪(半日)、空輪(宝珠形)となっています。水輪の正面には、大きな太くて深い立派な梵字が一字彫られ、裏側は円の中が空洞に、火輪は、廂が欠けてしまって、裏の一角に穴があき、水輪の空洞の入口につながっています。

昔はこの穴に、行路病者のお骨を納められたそうで、風輪か空輪か何方かの一つしか其の上にありません。四重塔です。でもどっしりした立派な塔です。その外無縁仏の石碑の集められている所には、尺に満たぬ五輪塔や、石塔が沢山あり、十三磚仏碑(永禄元年戌午十月十五日の銘あり、西歴一五五八年)もあります。

数多くの武家や豪族の活躍した、昔の跡が偲ばれます。

 恩智墓地行基開基の五輪塔

 それより山裾伝いに北行、垣内の元善光寺に少憩、八尾三大樟樹を眺め、垣内の墓へ。私が最初七墓参りをした時に、走り書きで、「ぎおんさん」のスケッチをしたのですが、其の時のメモでは、垣内の「ぎおんさん」はとても荒れていて、風輪と空輪が、土台の横に落ちて転がっていたのです。十年後の今日、とても奇麗に墓が整備されていて、地輪が新しく見受けられ、風輪空輪共に、ちゃんと天空の位置に載せられています。神立の墓へは、殆ど家続きになっています。昔の細い道で、新しい家が多くなり、所々旧家が点在して、忘れ勝ちの曲り道などで、

案内図 「角に右の地蔵さんのある所を、曲りまんのや。地蔵さんを目印に覚えときなあれや、言われましてんけどな。」

「どの辺やろな、まだ地蔵さんいたはるかな。」

「あっ、あったあった、居たはりましたで。」と、

大きな池は新しく、金網が張り巡らされ、神立の墓へ着いたのは、まだ十時過ぎです。

唯この墓で、大変不思議に思ったのは、例によって、墓の真中に大きな五輪塔唯一基ありますが、これが個人持の墓だそうです。

この五輪埼も、下層は蓮台にて、五輪全部に一字づつの梵字が彫り込まれた、それこそ七百年の歴史を持ったものと思われますのに。そして別に、こじんまりした、最近に作られた五輪塔(昭和二十七年三月吉日)、行基菩薩供養塔にお参りします。

たった一基の古い大きな五輪塔は姿といい、高さといい、古さといい、彫られた梵字といい、外の六つの墓の五輪塔そっくりのものが、こゝでは個人のものとなっています。恩智の墓にある戦国時代武将、其の他多くの豪族の墓総てが、尺にも満たぬ五輪塔です。庄屋の墓といえ共、昔は丸い右を、ボンと置いてある位ですのに。

 今大阪市に編入されている、旧矢田村大字矢田部の北山墓地も、行基の開いた墓と言われています。が、こゝには五輪塔は一基もありません。唯高さ三尺位の墓に、正面、南無行基大菩薩、右側。

御年七十八而為大僧正此任始干墓天平勝宝元己丑正月皇帝受菩薩、戒及皇大后皇后乃賜号大菩薩、左側。

同二月二日八十二於菅原寺東南院入寂矣 延享五年(一七四八年)歳次戍辰二月二日奉修一

千年御忌者也

裏面

河州丹北郡矢田部邑

弥明寺三味聖中、と、刻まれていますが、建てられて二百三十年を経て、大変傷んでいます。それで台右だけ新しくされてその台石に修築奉納者の名が、大きく彫られています。碑文が何時か消え失せ、台石の新しい名のみ残るとすれば……

  ゆく川の流れは絶えずして

  しかも元の水にあらず

  かつ消えかつ結びて

  久しくとゞまりたる例(ためし)なし

  栖(すみか)も又いつの程にか人変りぬ

とかや。神立の大五輪塔も、何百年の年代を、人不知。如何なる人をか埋め、如何なる人守るにや、又不知(またしらず)。うたゝ無常を感じます。

  山墓や見下ろす在所盆の村

 早い昼弁当を戴き、古い焼場を三巡りさせて戴く心算が、焼場の戸は堅く鎖されて、焼場を廻るすべもありません。たった一か所残っていた、七墓参りの行の場も、ついに終りです。

「早いけどバスの時間が分らんので、バス停でバスを待ち待ち、休憩しまひょか。」

先達さんの声に、一同重くなった腰を上げます。

瓢箪山行バスにて、瓢箪山下車。

下界は人一杯。下車した所から又バスに乗る。このバスどこ行きか知らず、皆の後ろに続き額田下車。耳を聾するばかりの工場の騒音、「額田の墓の皆さん、安眠出来るのか知ら。」と気にかゝります。きっと昔は野の中だったでしょうに。墓の入口に、立派な「ぎおんさん」彫り深き梵字、二か所に集められた、沢山々々の無縁仏碑、道を挟んで皆無言、思い思いに腰をおろす。

  白々と夏の日はじく街の墓

 額田より近鉄電車にて若江岩田下車、商店街の賑やかな人通りの道を、氷屋の旗にチラチラと心をひかれ乍ら、一寸痛い足をひきずって岩田墓地へ。

入口に行基菩薩開基岩田墓地の石柱、そして由来記、「ぎおんさん」はいづこも同じ、こゝの梵字は黒色を帯びて、過ぎ去った過去の、苦楽の時代相を強く表わしています。

 無縁仏隅に寄り合う岩田墓地

 本日の同行二十一名。若江岩田の駅までもどる途中、半数は氷屋へ、半数は其の氷屋に入られずに、駅前で思い思いにコーラなど呑む。そして布施で乗り替えて長瀬下車、最後の荒馬墓地へ。

 駅を出ると、長瀬川が流れていて、暫く川に沿って歩きます。

陸上交通の発達していなかった昔、此の川も井路川として、きっと沢山の剣先船が上下していた事でしょう。朝植松の墓を出た時も、この長瀬川に沿って歩いたのです。今この川に沿って、歩いて行けば出発点の植松へ帰る事が出来ます。昔バスや電車のなかった頃は、長瀬の墓地から、きっと剣先船に乗って、安中の天神橋のたもとの船着場まで、長瀬川を下って、疲れた足を休め、両岸の柳や銀杏や樟を眺めて、七墓参りの行の終った心の安らぎを味わった、人々もあったのではないでしょうか。つくづくそう云う風流も、味わって見たいと思った事です。

荒馬(ありま)の墓地は、東大阪市営長瀬斉場と、物々しい場札が掲げられ、右手には行基井戸があり、井戸よりポンプで汲み上げられた水が、冷やされて、遠来の行者の喉を潤してくれます。

行基菩薩のお坊さんとしての、僧形の供養塔が建てられています。勿論立派な五輪塔も一基、多くの庶民の墓に囲まれた中にあります。沢山の庶民に寄り懸られ、

「私が居るから安心だよ。此処へ来たからには、もう何処へ行く事もない、誰が為に心を悩まし、孤独の故に、己が魂を見失う事もない、いつまでも、いつまでも、大きな私の衣の下に眠っておいで」と、言われている様な、安心感の持てる、五輪塔の佇いです。

この墓地の入口には、墨黒々と河内七墓の一、長瀬墓地由来記の、木の一札が掲げられていて、とても由緒のある墓だなあと、印象づけられます。七墓には、それぞれ七つの異った顔があります。

人間の性格にも、百人百色があるように。

 植松の人は、晒の墓を出発点にします。又長瀬の荒馬(ありま)より出発なさる、他の河内の人々もあります。しかし植松の墓は、鍬納めの墓と言って、昔どの墓にもあった、焼場の穴を、一と鍬づつ掘って、その鍬を植松の墓に納めたそうです。先の八十六才の老爺が申されます。

「最近まで其の鍬がありました。」と。

 そもそも、この盛夏の最中に、汗を流し、河内七墓巡拝とは、誰が考え誰が行い始めたものでしょう。

ぎおんさんと無縁仏  したしたしたと、歩いて来る死の足音、どのように自らを偉いと思っている人にも、がっちり黄金に守られていると思っている人にも、頑健だと力んでいる人にも、そして吾々平凡な庶民にも、平等に訪れる訪問者、死。

「これは行です。」

七墓参りの道々、交わされた会話の一駒です。

  ほてる足七墓参りの行終る

 今この文を書き乍ら、最初七墓参りをした折、スケッチして置いたメモ、もう捨てゝしまったと、諦めていた小さいメモ、ふとノートの間から九年の歳月を経て、出て来た数枚、その色褪せた数葉を掌の上に乗せて、人の運命と云うもの、摩河不不思議な繋(つながり)を、神秘さを、どっしりと重く胸に感じ取っているのです。

約十年前七墓参りをした時に、十年後の現在、この「河内どんこう」の植松風土記に、七墓参りの記事を書くなんて、誰が予測し得たでしょう。夢にも思われない事です。

 よく世の人々は、自分はこんな不幸な運命に生れて来たとか、あの人は倖な星の下に生れたはるのだ等との、呟きを耳にします。しかし人間の運命と云うものは、やはり其の人自身の、平常の性格の中に、あるのではないでしょうか。幸も不幸も悲しみも喜びも、振り返って見れば、総て自分自身が歩いて来た道です。結果を見て、天を呪い人を怨み自分を悲しむのは、愚かな事だと思います。

自分の歩いて来た道を、吾々はともすれば忘却の河に流し去り、今歩いている道が、最も正しい道だと思い勝です。しかし人間の存在を越ゆる、神なる者の目を通して見た時には、果して総てが正しい道だったでしょうか。

何の役にも立たない筈であった一片のメモが、十年後の今日、一人の人間を再び七墓参りに足を向けさせる、強い絆となっていようとは、十年前より続く、目に見えない運命の道標として。

「七墓参りは行です。」

座禅でなし、寒行でなし、大峰登山の行でなし、ましてやかの有名な、二月堂お水取りの行でなし、男子のみのものでもなく、僧ばかりのものでもなし、吾々平凡な庶民の行願です。

 老後汚物の世話を掛けずに、極楽往生したしと願う世の大方の人々。地上には天を摩す高層ビルが建ち並び、羽根を持たぬ人間が、地球上を飛び交い、地下に昼の生活を持つ事の出来る現代、文化と時代がどんなに進んでも、生れるそして死ぬと云う、一本の道がある限り、昔も今も、安楽死を願う、人間の本性と云うものは、余り変らないものです。

ポックリ死を願って、ポックリ寺へ、バスに乗って団体で、楽々とお参りする大勢の衆が居られます。河内の人々は盆の月に、植松の人は八日七日の暑い日に、毎年毎年繰り返し、七墓を順拝されます。それを七年七度参るのは、仲々の苦行です。病いの時もあり、用事の突発する時もあります。それでも安楽に人の世話にならず、死に度いと願う心は、参る方法は違っても、益々盛んになって行くのではないでしょうか。

 過去、現在、未来と、いつの頃?よりか始まって、時には細々と、時には太く賑々しく、七墓参りを歩き続ける人々。

 来年も命永らえ、縁ありて、又、無事お参りする事が出来るでしょうか。蟻の如く集りて、蟻の如く列をなして。さて此の古さを、迷信だと笑い飛ばす事の出来る人が、果して幾人あるでしょう。

 所詮、人間とは心弱き老です。

 安楽死願いて河内七展墓

七墓へ七度お参りしますと、上の太子叡福寺、中の太子野中寺、下の太子勝軍寺、いわゆる三太子へ御礼参りをされます。


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