昔がたり

昔がたり  さあお立合い、御用とお急ぎでない方は、聞いてらっしゃい、見てらっしゃい、と言っても、俺は金瘡膏売りでもない。ましてや筑波山のふもとに住む、みにくい蝦蟇蛙でもない。姿、形は美しく色香人並すぐれた美貌の持ち主だ。

 「まあ立派ですね」と、言わないで溜息をつくんだ。「見事だなあ」と。

 さあお立合い、俺を一体何物だと思うかい、当ったらお慰み、当らない方は一度俺の前へ

来て立って見るがいい、実際実物の方が百万言を喋りたてるよりも立派なんだから。

 さてお立合い、この俺の囁きを心をすまし耳を傾けて聞いてくれるかい。

 昔も昔、それはずうっと大昔の話なんだ。その頃の俺はまだ小さかった。本当に今思い出しても、夢だったのかなあ、と思えてならないくらいなんだ。沢山々々の人やら馬やらが、佇んだり走ったり、津波のような叫び声が聞えてきたり、細い短い竹を削いだような物が、ヒユー・ヒユーと、盛んに頭の上を飛び交うたり、足元へその一本がバサリと落ちてきた時には、飛び上るほど驚いたものだ。それは先が尖っていて、矢という人を殺す道具だそうだ。後で知ったことだが、この軍は聖徳太子、蘇我馬子の連合軍と、物部守屋との争いだったそうだ。

 この戦いが、俺には一番恐ろしかったな。なんせ俺は小さくて、いつ踏み殺されるかわからなかったんだ。それでも運よく踏み殺されずに少しづつ、大きくなっていった。竹薮や芒や葦や、根の縦様に張り巡らす強い草木の間で、またその強い根にも助けられて、俺はとうとうその草木よりも背丈が伸びてきたんだ。そしてやっと俺は、どんな所に住んでいるんかなあと、周囲を見廻す余裕が出て来たんだ。

 大雨の降った後は、ごうごうという物すごく恐ろしい音と、何かの叫ぶ音がいつもどよめいて聞こえていたのが、あゝこの川の流れる音だったのかとやっとわかった。

 大きな川だぞ、大和から流れてくるので、大和川と言うんだ。右を見、左を見るのに、ちょうど俺から見て右側が一番川幅が広かった。二町、そうさな今で言うなら二百二十メートルくらいかな、普投は流れが浅くて、静かな優しい川だったよ。女性的と言うのかなあ。

 時々上流の方から、小さい舟に赤い裳を引いた可愛い子ちゃんが乗ってくることもある。どこか遠くへ行く人を見送りにきたのか、手を振りながら、さめざめと泣いている人もあったな。また立派な男子が、川上の山に向って手を振ったり、川向うの神の森や寺を拝んだりしつつ下って行った。行って帰らない人もあったし、紅顔の美少年が白髪の老人になって、それでも無事に帰ってきた人もあったな。そして無事に帰ってきた人は、きっと寺や神社を指さし、お互いにうなずき合っていたし、それから俺を眺めては、驚きの表情を表わし感嘆してたな。きっと俺がどんなに立派に大きく成長したかを見て、年月の経つことの甚だしさ、人間のはかなさをしみじみ味わっていたのだろうよ。

 だがなあ、お立合い、毎日々々こんな長閑な日ばかりではなかったんだよ。木の芽時が過ぎて、梅雨の頃になると、この大らかな豊かな流れを持って大地をうるわし、ちょうど母親の乳房から溢れ出る乳のように、万物に栄養を与え、総ての物を慈しみ、魚貝を育て、時には大人や子供を遊ばせ、物を運搬し平和と生存の偉大な協力者である、女性のように優しいこの川が、きまってヒステリーを起こすのだ。女のヒステリーほどやっかいなものがないように、この川も狂瀾怒涛よ、無茶苦茶に走り廻って、なだめてもすかしても駄目なんだ。果ては囲を破って、あっちこっちへ出て行ってしまうのだ。

 ヒステリーの終った後のやる瀬なさ、田畑は流れる、家は流れるその上に土砂は積む、本流は何処を流れていることやら…。

朝日  人間という動物は、どうも俺にはわからん時があるのよ。賢こいことこの上ないと思っているのに流されても流されても木の上に住居を作らないんだ。この辺は見渡す限り平地だろう。その平地にまだ穴を堀ってその上に屋根をかぶせてあるのだ。大水が出ればひとたまりもなく水つきよ。

 ところがお立合い、俺は何という運の強い男だろう。俺の住んでいる所は、何処よりも小高いし、前にも話したように一寸東寄りの上流で、一番太くて迂廻しているから、川が荒れるたびに俺の前には土砂が積って行くんだ。人の運不運というのも、一つには住んでいる場所にもよるんだなあ。沢山の友達が生れては消えて行き、また生れたが、俺のこの一角だけは俺の子も無事生きているんだ。

 さてお立合い、禍福はあぎなえる縄の如しとやら、美しい光景の時もあるんだよ。

 俺は高い所に住んでいる。そのうえ背がぬきん出て高いときているから、随分遠見が効くんだ。東は高安山、恩智山、玉手山と一眺めさ。俺の頭の天辺に、東山から登る朝日の陽光が一番先に当るのよ。その時の俺の肌の輝き、回りから一せいに羨望の呟きと、囁きの熱い目で見上げられるんだ。俺の得意の時さ。そのお日様のまたきれいなこと、少しもよごれていないんだぜ、いつもいつも。そして夕方真赤な夕日が真赤に天空を染めながら、静かにゆったりと、西の方難波津の水平線に沈んで行くんだ。どんな物にも変えがたい壮厳な儀式だ。じいんと骨身に沁みるなあ彼語らず、俺語らず、沈黙の神の時だ。川向うに聳える甍は龍華寺、その東側の森は渋川神社、龍華寺は勿論俺がまだ見ぎる聞かぎるの小さい時に建てられたのだろう。俺が大きくなった時には、もうあったのだ。

 ある時、そうだそうだ、それは冬に入った頃二、三年割り合いに川も荒れなくて世情が静かだった。両岸の村々から人が出て俺の前の堤の上を、キレイにならして道普請をしたんだ。そして何処から集まってきたのか、その堤の上へ昼店が開かれた。悲しいことに横上から見下ろしていたんでは、何を並べていたのかさっぱりわからない。そこへ沢山な舟が川上から下ってきたり、川向うから渡ってきたり、その乗ってきた人が皆キレイなんだなあ、男も女も互いに笑ったり、さぎめき合ったり。

  朝霧や村千軒の市の音   蕪 村

 話は変るがお立合いの衆よ、俺にも恋があるんだ。若き日の春秋もある。だがこの恋は恵まれることが実に少ない。ふくろうや、こうもりや、小鳥達が俺の所に住んでいる。夜も昼も、それはそれは賑やかだよ。この者達には声がある。表現することができるのだ。きれいに装うことも、自由に飛びはねて恋の囁きを交わすことも、何とも言えぬ優しい柔かい丸みのある声に、言うに言われぬ艶があるのだ。くすぐったくて、甘ったるくて、とろけるようだ、嘴をつつき合い体を寄せ合い、小さい巣を作り、可愛らしい子供が生れてくる。それを皆俺が雨風から守り食事を提供して成長を見守ってやっているんだ。そのかわりといったらおかしいが、その鳥達がときどき動けぬ俺のために、離れた俺の友達?恋人というべきかな、そこから目に見えない恋の花を運んできてくれるんだ。春五目ともなれば、物言わぬ俺にも青春の熱い血潮が吹き出す。いくら押えつけようとしても、恥しくても自然という物の力が、身内に沸々と燃えてきて、表に出てしまうんだ。そんな時、小鳥達の囀りも飛び交う姿も、俺には天使に見えるのだ。そして俺も一緒に踊っている。音楽を奏でている。演奏をし合唱している。だがなあお立合い、俺がこんな心でいることを誰が知ってくれるだろう。つまらぬぐちを聞かせたが、また前の川の話に戻ろう。

 紫色の輿を先頭に、赤い輿を連ねて、それはそれは見事な行列が東の方からやってきた。龍華寺に参拝の称徳女帝と、太政大臣弓削の道鏡の御一行さ。天皇はこの時五十二才、美しく化粧して、若々しい絹をまとっておられたさ、道鏡は勿論紫の僧衣、ぼつぼつ更衣の季節だったから、そうだそうだ思い出した。七六九年神護景雲三年冬十日一日だ。川面を吹く風はそぞろ冷風、浮き立った人々の肌にはちょうど心よい涼しさの感じだったろうよ。

 女帝が道鏡と出合われて、七七〇年宝亀元年八日四日五十三才で薨去されるまでの七年間の間に、称徳女帝は三度由義の宮に行幸されている。始めは七六五年天平神護元年、紀伊和歌の浦玉津嶋へ御参詣の帰途、河内弓削に立寄られ弓削神社に御参拝されている。それからこのたびの御遊覧で、再度由義の宮に行幸されている。合わせて弓削へ三度の行幸、お立合いどう思うかい、女帝は五十二才、道鏡はこの時六十才に近かったという。

 龍頭げき首の舟を浮べ、紫の房を舟の舳先になびかせて、都を遠く離れ、お付きの女官貴族を堤の市に遊ばせ、どれほど心をくつろげて、道境と過されたことであろうか、人生の晩年を…。俺は思うんだ「神は沈黙している」と、女帝もまた神に近き方である。

 父聖武天皇を、近年には母光明皇后を失い、大仏造営に多額な国費と、人の労力とを費し、そこに残されたものは民の疲弊と、疫病の発生、それに心の荒廃による相次ぐ密告ざん言だ。そのために奈良の都では、女帝を取巻く叔父、甥、肉身の多くの人達が、疑心暗鬼に取りつかれ、流されたり、あるいは追いつめられて自縊(じい・首をくくって自殺する)をしたり、すべて邯鄲(かんたん)春草の夢のごとく、はかなくこの世から消え去っていたのだ。

 重祚された女帝が、病気をしてしみじみと自分の身の回りを見渡した時、そこには後継者はおろか我が心を頒つ人もいない狐独な沈黙の世界しかなかった。

 お立合い、君ら煩悩多き人間はこんな時、一体何を思い何を考えるだろう。ちょうど迷える小羊が黙って涙を流して俺を仰ぎ見るように、きっと沈黙の他者に向うだろう。そして吾が扶助はいずこより来たるやと。

 女帝が仏の加護に心が引かれたとしても、それは人間が人間であることを失いたくない本能に近い願いだったろう。そんな時に看病禅師として病気を癒し、深い仏教の学力で女帝の心を慰め、教導する不思議な呪力と、魅力を持った僧道鏡が現われたとしたら、俺だって恋をする。ましてや女王とても人の子、恋をして何が悪い。恋は人倫の常ではないか。だがなあお立合い、恋の囁きが俺に出来ないように、心に思いつのっていても外に表わせない悲しい地位と性の者もいるんだよ。せめて権力の座にある者は、その権力によって愛する者へ位を与え、ささやかな愛の発露を表現してもいいではないか。とにもかくにも、この龍華寺参拝は、恋を語れない狐独な晩年の女帝にとって、道鏡との最も楽しく華やかな心豊かな一日だったに違いない。二度と持てぬ一日よ。

 このような楽しい愛の一日を夢の絵巻物を広げた美しい舞台の背景になった大和川を、龍華寺を俺は植松弓削をはじめ河内の人々と共に喜びたい。

 植松に市之町という町名があるだろう。このとき堤に市を開いた場所なんだ。何の気もつかずに皆歩いているだろうが、連綿と今まで続いている古い謂れのある道なんだ。続日本紀にちゃんと出ているんだ。

 龍華寺西の川の上に河内の人、市を開き、つき従ってきた五位以上の人に、好きな物を買わせ、車駕この賑いを眺めて遊覧されたとその時の村人は、これを記念して今に市之町と残したんだなあ。それにだ今の永畑小学校のあたりを小字伏拝(こあざしょうがみ)という。由義の宮を伏し拝んだ所だと。朝夕、村人はここに集まり由義の宮を、奈良の都を拝んだのだ。

 とやかく楽しい夢の思い出にふけっているうちに、大和川の様子が変ってきたんだ。上下する舟の中に、以前通ったような美しく飾った舟が通らなくなった。いつも荷物を積んだ舟とか、朽ちかけた百姓舟ばかりになってきた。変だなあと思っていたら、女帝は川遊びの翌年亡くなられ、次の次の帝の時、都が奈良から京都へ移ってしまっていたんだ。まあそれからというもの、毎年々々大なり小なり水害が多くなってきたなあ。これはだなあ、大雨のたびに上流から土砂が流れ流れて、難波津の河口、大和川や淀川の合流地点が高くなっていったんだ。ちょっと雨が降れば見渡す限り泥湖さ。だがな水害のたびに俺の居る所は砂がたまって、砂丘がいよいよ高く土台は十分、だから快適だ。市の開かれた堤も山のようになって西側を小字山表(こあざやまおもて)と言うんだ。一番川幅の広かった所には中洲ができて中島という地名も今に残っているんだ。

  五月雨や大河を前に家二軒   蕪 村

洪水  一五三三年天文二年五月五日暁天、偉いことが起こった。まだ白光もない間の中、俄かに向う堤が決潰したんだ。この時も恐ろしかったなあ。何せ大きな木でも家でも、何もかも水の行くところかなうものなし、何百年も生きてきた大木が音もなく傾いたかと思うとゆっくり水の中へ倒れてしまうのだあらゆる物を無視した神秘な力、その一滴は万物を育くみ、その万滴は時に万物を枯らすのだな。さすが大寺龍華寺も槿花一朝の夢と化し、ただ田ん中に二個の大礎石と、字大門(だいもん)の名を残したのみだ。勿論、渋川神社も流されたよ。ところがさ、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、饒速日命(にぎはやひのみこと)二柱の御神体は、その化神とあがめられていた橡の木の橡の葉に乗って流されておられたんだよ。お立合い、昼過ぎ河口がつまって、川が逆流してきて、岸に流れ寄られたところを村人が見つけ、皆々して抱え揚げて、俺のいる高見に仮宮を建ててお祀りをしたんだ。その後、度々時の官庁に訴えてと言ってもだな、何せ時が時、名にしおう戦国時代、ようやく織田信長が天下にその名をあげてきた時だから、大将とてあっちゃべらやらこっちゃべらやら、如何にもややこしい時代よ。代官だとて席の暖まる間がなかろうさ。

 だがなあお立合い、村の衆は無事故郷に流れもどって来さっしゃった神様を一層ありがたく我が里の守り神と恐れかしこみ敬ったことだ。

 一五七二年元亀三年〜四年にかけて、元のお旅所であった俺の老樹鬱蒼一森林をなす、と言われた小高い森に無事鎮座されて、今に至っているのだ。

 俺の友達は皆、東山の山麓にいる。だが俺だけは、片や大和川の清流に臨み、片や広々漠々たる河内平野にいるんだ。ましてや、高々と一森林をなしているので、一里四方二里四方から望見することが出来るんだよ。その蒼大なる姿を。遠くへ旅した者は、俺を見てああ故郷だ植松だと、何ぼう心の安らぎを覚えたことか。

 昔は物部、中臣、忌部連等一族が渋川神社の奉仕をしていた。物部が亡んでからは龍華寺の僧が神社の祭祀をしてきたが、龍華寺が流滅してからは、神宮寺を傍らに設け祭りをするようになったんだ。俺の所は賑わうようになった。俺は朝夕微笑ましく、恋や悲運や人生のもろもろを見おろしてきた。

 神社が一五七二年、無事植松に鎮座されてから、十年も経ったかな、俺には瞬(まばた)きをしたくらいにしか思われんのだが、大和川を上下する舟が何となく気ぜわしくなってきた。石を積んだ舟がひっきりなしに川を下っているんだ。一体何に使うんだろうなあと、不思議に思って眺めていた。

 真夏も過ぎた太陽が、とりわけ美しく、勇大な姿で西の方難波の海に沈もうとしていた。黄昏どき、千万言を費しても、この雄大で荘厳な大自然の営みを、文字に表すことなど出来るもんかと、呆然と見とれ考えていたんだなあ。そしてふと我に反った時、今沈んだ太陽の余光が、前面を後光のように背面は黒々と、俺より右手北寄りにだな、一森林にあらず、忽然として城の天主が極楽の影絵のように浮き上っているんだ。驚ろいたなあ、いつの間にあんなでっかい立派な高い天主閣を築きやがったんだ。俺と天主閣と、俺はそれかから夕日の沈むのを眺める毎日を、共に天主閣をも眺めて暮すようになったんだ。毎日眺めているってことは、なつかしいものだ。何だか俺の身内のような気がしてきたなあ。俺は何百年の歳月で、俺自身の力で俺をつくってきた。狐独でだ。天主は何万人の人の力と富で、そして俺から見れば、あっという間につくられてしもうた。時に夕陽に輝く天主の金色の鯱と目を見交し、心を通じたりもするんだ。被も狐独だと?

 お立合い、彼は夫婦さし向いなんだぜ、何々俺には恋人がいるってか、そうだなあ俺と恋人はこの森から頭を出して、いつも向い合っている。恋人は春になれば緑まばゆく、秋になれば黄金色に更衣をするんだ。うっとりと見とれるほどきれいだ。一本気なほど情があるんだ。幸せだと思わんといかんかね、お立合い。

 地球の歴史は百年を一世紀と呼ぶそうだ。俺なら、さしづめ一年くらいのところだなあ。 大阪城天主閣が産声をあげたのが一五八三年、それからまだ三分の一世紀も過ぎないという一六一五年慶長二十年夏五月、ときどき俺に対して、金色の光線を矢のように放ってきて、「どうだ俺様は」と俺の大嫌いな黄金の優越感をチラチラさせやがったあの金の鯱夫婦が、紅蓮の炎の中へ吸われるように落ちて、溶けてしまいやがったんだ。

 ああ!俺は涙が止まらなかった。何と言っても三十年間、雨の降る日も風の日も、俺達は毎日天空高く狐高の心を通じ合っていたのだ。それこそ巨万の金銀財宝と、巨万の人力とを注いでつくっておきながら、人間とは何と勿体ないことをする奴等だと、しみじみ俺はなげいたもんだ。どんな理由があったのか知らんけど。ちょうど大坂域のあっちゃこっちゃから、煙の上りかけた頃、俺のこの森の中でも、ごそごそ・ごそごそと槍を持ったり、弓矢を持ったり、鎧の金具をカチャカチャ鳴らしたりして雑兵が昼間かくれていたなあ。長い槍の柄で俺の足をこづきやがったり、木の上へ登ったり、だがなあお立合い、この兵達は、大坂方の長曽我部盛親の伏兵だったんだと、一寸でも俺はあの鯱夫婦のために助力したんだと心ひそかに喜んでいるんだ。津波のごとき怒号と、天を摩す紅蓮の炎と、沈む夕陽には明日がある。が紅蓮の炎は立登って再び帰らない。亡び去るもの、その中に最後の美学がある。再び見ることの出来ない背景の中の亡びの美学が、俺はその美と涙を、この俺の体内に今も秘めている。夜半ひそかに物言わず去って帰らぬもろもろを偲んで、熱い涙を流すときもあるのだ。

 お立合い、大和川つけかえまでの予定だったが、大坂落城を思うと俺はやっぱり悲しい。疲れた。つけかえから後の歴史は、またの時にしよう。

  春風や堤長うして家還し 蕪 村

 お立合い、お主も一句つくらんかい。何々そんな昔に生れていなかったから、ようつくらん。嘘を言え、下手だからだろう。「まあな」人間様とは何と短い命なんだろうなあ。

だが命長うして俺も草臥(くたび)れた。

  「ぢやあ−またな」

  ″沈黙は神なり″

 村人は俺の体に新しい注連縄(しめなわ)を張りめぐらして、その前で柏手(かしわで)をぱんぱんと打って、「あん」と拝んだ。


総目次、 春ごと 七墓参り