春ごと

春ごと はーるよこい

はーやくこい

あーるきはじめた美代ちやんが

あーかい鼻緒のじょじょはいて

おんもへ出たいと

まっている。

 待ちに待った春、暗く、沈んだ、寒気の中で、身も心も堅くして、巣の中に籠っていた人々にとって、春とは何と明るい響きと、希望にはずんだ言葉でしょう。

 今は何処の家々も、部屋の中は暖く、明るく、蛍光灯の光の下でテレビ等を見乍ら、冬も暖く、楽しく過す事が出来ます。

 でも今から七十年程前、丁度明治も終りに近い頃でしょうか、其の頃の植松には、まだ電灯がなかったのです。

 小燈(ことばし)と、石油ランプだったんです。燈心と言う細い芯に火をつけて、火が風に揺れる揺れない様、火屋(ほや)をかぶせてあります。その火屋が一と晩で、煤がたまって真黒になるので、夕方火を点すまで、きれいに火屋の煤を拭くのが、子供の役目で、遊びに夢中になって、暗くなってから気がつくので、よく叱られたものです。

 それから暫くして大正の初め頃やっと、十六燭光のタングステンの裸電球が、一つか、二つ、家々につく様になります。それでも、夕方暗くなってからでないと、火をともさせて貰えなかったのです。

 外が暗くなると、裏の畠や、おがいろで、狐が鳴くので、小さい子供達は、そのうす暗い電灯の下へ寄り集まって来て、夕食の膳ごしらえに、いそがしい大人達の動きだけを、

じっと見ています。其処はかまどの火が燃えて、ちろちろと明るくて、暖かそうなんです。

やがて湯気だけがやたらに立ち登る、鍋や釜が、煤けて黒光りのする、板敷の広い上り框にはこばれ、十六燭光の、ほの暗い電灯は、立ち登る湯気に包まれて、余計ぼうっとなります。其の黒いベールに取り囲まれた中で、つゝましい夕食をします。

 子供達は、祖父や祖母、父や母、兄や姉、大勢に囲まれて、ちやほやされますが、それも束の間、「電気代が高うつくさかい、もう早う寝えや。」と、言われると、寝るより外に手はないんです。

 紺地に、亀や唐草の柄や、ぼたんに鶴の模様を、白く染め抜いたごわごわしてとても丈夫な河内木綿の布団、そしてその中に入っている綿、みんなそれぞれの家の畠で、作った真白い綿の実から、紡いで織られたものです。

 また、其の布団の中に入れてある炬燵は、縦横長さとも、三十糎位の、黒い四角なやぐらになっていて、火入れは素焼の大きな丼鉢で、底に藁灰を敷き、焼いた炭団(たどん)を入れ、其の上に、籾殻を燃やした畑をかぶせて、上を丸くならして入れてあります。

 よく灰になり切っていない籾殻のきな臭い匂いが、布団にもぐり込んだとたん、足元からいきれと共に這って来て、かまどを焚く、母の横にしゃがんで、膝に寄りかかり乍ら、燃える炎をじっと見つめて居た時の暖い安堵感を覚えて直ぐに寝入ってしまうんです。

 そんなに暗くて、寒くて、長い長い夜の続く冬を通って来ますと、どんなに春と言う光の待ち遠しい事でしょう。

 暗さを知って、光の明るさを知り、寒さを知って、火の暖かさにあこがれ、豊かな感受性を自然と言うものゝ偉大さの前に大きく広げて、春を自然を、神々を素直に胸一杯に受け入れます。

ああゝ! 暖かい、明るい、空に向って、雲雀と同じ空気を胸一杯に吸う事の出来る春です。そして植松の春事です。

 昔々その昔の植松は、大変栄えて居て、植松千軒≠ニ言われていたそうです。

嫁入りするなら、植松太子、同じ村でも街がかる

 こんな言葉も古老の間で、語り伝えられています。

友黒大明神のおわします、西口コンペラーンから、東口コンペラーンまで、歩いて十分もかゝらない、百軒にも満たぬ植松ですが、山んねきの恩智、垣内、神立、また南の船橋、本郷、安堂、大堀あたりから、植松へ嫁いで来られた方が、大勢居られます。

 河内の春事は、南の国から、黒潮に乗って、桜前線を押し上げて南の大和川を越えてやって来ます。

 先づ第一番、道明寺天満宮の菜種御供、三月二十五日の祭礼が川向うの春事です。

 菜の花や天満宮への人の波

 在所の人はいそいそと、嫁いだ人は親元へ、親類の人は招かれて、近郷近在の人は、お互いに誘い合せて、天満宮へ、降って沸いた人の波が、大和川の堤を越えて菜の花畑の中の小径小径を放射状に延々と天満宮へつゞきます。

 四月三日、山んねきのどんたくです。春事と言う所もあります。大和川に近い所は、堤の下に昼店が出て、お弁当を作って貰って、つくしを取ったり、川へ入ったりして遊びます。

 山んねきの人々は、お鮨や御馳走を持って、安養寺の山、垣内の山、玉祖神社等のお山に行きます。太鼓を叩いたり、鉦をならしたり踊ったりはねたりして、男も女も子供も、夕方まで楽しく遊びます。

 四月十六日、一番終りが植松の春事です。植松には、山もなければ川もありません。

 それでも野に出て、蓬を摘み、前の日にお餅をつきます。

草餅には春の香りと、春の色があり、餡餅には、暖かくよく肥えた土の色があります。嫁の里、母の里、縁づいた娘の所、親類縁者に、この餅がくばられます。

春ごとの当日  「明日は春事やからおいでな。」

 「うん帰らして貰うわな。」

 「きっとやで、待ってるさかいにな。」

 「気いつけて帰りや。」

お餅を届けた姉弟では、こんな囁きが交されます。

 春事の当日は、朝早くから、大きな斎擣に五目鮨が山盛、巻鮨や玉子焼、コンニャクの辛煮、人参ごぼう、鮨や煮物を四重の重箱に詰め、子供が学校から帰って来るのを待って、山なし川なしの植松は、畠の温床の藁囲いに行きます。藁囲いは北と西が高く、南は最も低く、一番端に出入口をつけて中には、油を塗ったかまぼこ形の障子がふせてあり、其の障子の中で、茄子や、きゅうり、とまと、南瓜の苗が、汗ばんで元気に育っていて、とてもとても暖かいのです。藁囲いの外には、梨の花や、ピンクの小米花(こごめばな)、白い雪柳、柿の花黄の蓮翹(れんぎょう)などが咲いて、囲いの中の菜の花は延び過ぎて呆けています。

 こうして春の一日、親は子供に合う喜びにひたり、兄弟は、幼き日の情を暖め、お互い無事で生きている事を感謝し、明日への生きる力を漲らせるのです。

 村ん中では、

 「帰っといんなあってんな。」

 「今日は、おばちやん、御達者で、。」

 「そうだんがな、憎まれもんで世に憚かってまんねん。」

 「いやあ、長生きせなあきまへんわ。」

 「来年は、子連れだんな。」

 「おゝきに、おばちゃんも元気でね。」

誰彼なく言葉を交し、春事って、連体感を持った、安価で、そして心豊かな充実した、遊びではなかったでしょうか。

 植松の春事が済みますと、二十二日は、年に一度のお太子さまのお会式です。

 昔まだ奈良街道が、跡部、太子、植松の村の中を通っていた頃、お太子さまの表門は、北側、旧奈良街道に向いて、建っていたそうです。明治二十年、新奈良街道(国道二十五号)が出来てから、現在の南向に移転され、門前のお地蔵さんも御一緒に。

 忘れもしません、大正十二年九月十一日、関東大震災の起った日の午後、「お太子さんの、蘇鉄花咲いてるんやて。」

 「あの花が咲くと、何か悪い事が起こるんやてな。」

 とても暑くて、野も道もかさかさに乾いて、白い砂埃が立ち込めていた様に思います。

其の道にまた、砂埃をけ立てゝ、お太子様の蘇鉄を見に行ったのです。今も寺務所の玄関横にある大きな見事な蘇鉄です。真黄色の大きな花が、太い幹の天辺に、帽子の様にかぶさっていて、それが雄花か雌花か何十年目に一度咲く花だとか、囁かれて、赤身を帯びた真夏の太陽が、其の一点に凝縮して、それが大地震の恐怖と相俟って、見る人の心に異様な静けさと、冷めたさを、鮮烈に焼きつけたものです。

 お会式は一時頃から始まります。緋、紫、黄、黒、派手な法衣のお坊さん、鉦、ひちりき、横笛の楽師さん、おじいさんおばあさん、子供達で、堂の門外は身動きも出来ません。

其んな中で、盛装をして、一際目立つ女の人は、姑さんに連れられて、最近植松へ嫁いで来られた花嫁さんです。

 「あそこに居たはんのな、どこそこの花嫁さんやで。」

 「えゝ荷物で来やはったんやてな。」

 「こっちこっち、こっちゃの人は、ほれまだ可愛らしいやろ。」

 「まだこないだ来やはったばっかりやな。」

小さい子供達は、憧れの熟い瞳を、お嫁さんに注ぎます。

 本堂の東側の空地には、横に長く二坪ばかりの小屋が作られ、其処で詠歌踊りが奉納されます。何々講と染め抜いた半てんを羽織り首に輪袈裟をかけた、おじいさんおばあさんが、正面向う隅に一列に並んで、鈴と鉦を叩いて、詠歌を誦され、其の前で四、五人のおじいさんおばあさんが、扇を持って踊られます。

 見物人から、おひねりが渡されて、「五番、葛井寺願います。」と声がかゝりますと、その御詠歌が誦され、踊られます。小屋掛けの前は、一杯の人だかりで、日も少し西に傾むきかけた頃、「石童丸」と言う声が聞かれ、小屋の前の見物人は、暫しがやがやと期待にざわつきます。

 この時真実の石童丸は十四才だったそうですが、十才位の想定のもとに、子供が扮する時も、おばあさんで代用される時もあります。

やがて、手桶を提げ、珠数を手に白い布を被り、坊さんらしく扮装した、苅萱道心が、舞台中央に現われます。其の後ろから、「ご坊さま。」と言い乍ら、小さい菅笠を傾けて、石童丸が走り寄ります。

詠歌踊り  「寄び止められしは、私の事か。」

 「はい、このお山に今道心は、おわしませぬか。」

 「昨日出家も今道心、一年経っても今道心、かく言う私も今道心お山に今道心はたんと居る、見ればまだ年端も行かぬ幼さ、一人で登って参られしか。」「いゝえ、いえ、この高野山と云うお山は、女人禁制のお山とか母は麓の女人堂にて、私の帰りを待って居ります。」

 「して、そなたは何れより。」

 「播州明石から参りました。」

 「尋ぬる人の生国も明石なりや。」

 「いゝえ、父様は筑紫の国は御笠の郡、苅萱荘にごぎいます。」

 「何、何と云ぅ?」

 「父様の名は、博多の城の守護職、加藤兵衛尉繁昌が一子、驚氏と申します。」

其処で、苅萱道心は大層驚き、手桶を置いて、吾が子の顔をためつすがめつ眺めます。女の妬心の激しさに、無常を感じ、恩愛の絆を切って、出家した身にも、この様なる子供が生まれ、成人していたとわ。

「私の名は石童丸、母様が父様を尋ねて、播磨の国は明石の浦まで来て、明石の大石寺にて私を生みしと、常々申し開かされて居ります。」

「………」

「御坊はもしや、父様を見知って居られる方では?」苅萱道心は、やっと吾に返り、暫く後ろを向いて暗涙に咽ぶが、やがて心を取り直し、「其の様な方は知らぬ、又よし知っていたとても、一度(ひとたび)入山せし上は、更々俗には還るまじ、そなたは早う下山して、日の暮れぬ内に母御に会い、早々(はやはや)国に帰られよ。」

 苅萱道心、袂を払って去りかけます。

「もしや貴男が、尋ぬる父様では?」

「いやいや尋ぬる身には、誰もが父に見えるもの、哀れな物語り故、ついつい涙を流せしも、悪しゅうは思うまじ、とくとく帰って母御に孝養つくされよ。」

 石堂丸泣く泣く杖にすがってとぼとぼと、見送る苅萱道心、所々淋しい詠歌も入って、チョン。

 見物人一同も吾に返って、人の情の誠と云うものを心に浸み込ませ、涙を拭い、父母や兄弟のいる暖かい我が身にひき比べ、何となく幸せになった様な感謝の思いに打たれるのです。

 下山した石童丸は、麓の宿で母の死に合い、再び入山して信生法師と名のり、父等阿法師と共々念仏修業に入ります。

 開け放つ思惟の菩薩や椋若葉

 昔々、十六町四方もあったと云われる、お太子様の有名な神妙椋樹はよく茂って大きく、北の渋川にあった宝積寺の森の木と枝が交叉していたそうです。

 こうして詠歌踊りの前を離れる頃には、本堂の会式も終り、表の街道までずらりと並んだ、かに店を値切り値切り、何匹かを藁にぶら下げて貰って帰ります。

 この様に夜の暗さを経験して来た者でも、五十年の歳月は、すべてを忘却の彼方に押しやってしまいます。夜か昼かネオン輝く、今の世代の人達には、想像もつかない事でしょう。

 天上界の一年は地上界の四百年に当るとか、過去五十年、地球上の科学、人類の歩みを見ますと、時によく二万年に匹敵する程の進歩ではないでしょうか。

 五十年生きた者には、電灯のない冬は、つい昨日の様です。若い人のこれからの五十年は、とても遥かな朧に霞んだ彼方でしょう。でも其の朧に霞んだ彼方は、あっと言う間に過去に飛んで行ってしまいます。それでも夜と昼、一刻と云う時間、春夏秋冬と云う自然は、昔も今も一向に変りません。

 若い人も、老人も、今この大地に生きて、共に立っていると言う喜びを大切に大切に喜びたいと思います。

 植松の春事は、河内全体の春事とも、いさゝかのかゝわり合いを持ち乍ら、お太子さまの会式を最後にいよいよ麦秋、夏の農繁期へと入って行きます。


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