おかいさん 売ります

−八尾まつりの胎動 5−

河内の茶ガユ(恩地の感応院で)
河内の茶ガユ(恩地の感応院で)  その昔、大阪の船場、堂島で働く丁稚(でっち)たちを供給しつづけた河内。信貴・生駒の山すそまで田畑がつづいた、農村地帯。

 大正中期、旧制の女学校を卒業した市内のある主婦が言う。「それはもう女に教育なんていらん≠「われて。とくにここは、小学校出れば商人(あきんど)になるものと相場が決まってましたから‥」

 食生活は質素だった。そのなかで、舌ざわりよく、大人になっても郷愁をさそう河内の味、茶粥。

 「ちゃがい」と発音する。まろかやかにそう呼ぶ。おかいさん≠ニよぶ人もある。

 よそさまの家の食卓、のぞき見する非礼をあえておかすと。恩智生まれの山脇市長、その朝は必ずおかいさん≠ナはじまる。一日も欠かさない、と。ここに河内っ子。食生活のなかに、まだ根を生やす。

 河内の庶民の間に茶粥が広まったのは、江戸時代といわれる。お百姓たちは手桶に入れて野良に運んだ。農作業の合い間腹ごしらえに柄杓(ひしゃく)でわんに盛りつける。

 「経済的に安価なところから始まったというのは誤り。茶粥のもとは神事にあるんです」帝国女子大の辻合喜代太郎教授(恩智)は強調する。

 中国で神前に供えたことがはじまりといい、いまでも恩智神社(新海三智麿宮司)には「おかゆらの神事」が残る。

 由緒ある、このおかいさん≠八尾まつりで大盤振舞いすることが決まった。八尾市民に安く味わってもらえる郷土料理はないか―まつり企画委員がひねり出した。

 一杯五十円。千人分を用意する。本町二、八尾商工会議所横、水車をまわして農村風景をつくりそこに縁台を並べる。素朴なカユの味わい、現代っ子たちの舌も魅了するかどうか―。

茶粥の思い出

茶粥炊きは冬の思い出、茶粥を食べるのは、暑い夏の思い出。

 寒い冬は大きなへっついさんの前で、母なり祖母なりの膝にもたれて藁火のまろやかな火照りに当りながら、桃太郎さんや、一寸法師、果てはおがいろの狐の話、もろもろの幼き夢の物語りを、ここで覚えます。

 大きなお釜からは、白い湯気がモウモウと立ち昇り、こうばしいお茶の香りがただよってなんとも言えない満ち足りた心になります。

 子供達が小学校から帰って来る頃には、ちょうど七つ茶の時間です。お粥の用意も出来ています。大さな木の手桶に茶粥が入れられ、別の笊に茶碗や箸、おこうこが包まれて子供は軽い物を持って田んぼへ行きます。

 その田んぼで、大勢の大人に交じって食べる茶粥のおいしかった事。どのような高価な御馳走よりも甘いお饅頭よりも素朴な味。淡白な舌ざわり。とろけるように胃に流れ込む、熱くなく堅もなくて、いい塩加減。

 托鉢(たくはつ)のお坊さんが黒い衣に饅頭笠、何やら経文を唱えながら、門口に、立たれます。ちょうど七つ茶の茶粥の出来た頃に当りますと、

「七つ茶たけましたが上りますか」「頂戴致します」「どうぞ」

 お坊さんは、頭陀袋の中から、布を出して鉄鉢を拭いて、差し出されます。一膳半位の分量のお粥と、その上に黄色いお漬物が、二た切れか四切乗せられます。

その間にお坊さんは、袋からお箸を出され、両手の親指に箸を一文字にはさみ、粥の入った鉄鉢を受け取られ、捧げて一礼してほんとにおいしそうに召し上られます。そして箸も鉄鉢も布できれいに拭いて、箸は袋へ、鉢は手に捧げて経を唱え一礼して去って行かれます。

 子供心にも、なんと堂々たる振舞だろうと思ったものです。

(八尾市民新聞、昭和53年3月3日版から 山野としえ)


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