諏訪御柱

信濃国・一の宮諏訪神社御柱祭

山野としえ

諏訪御柱

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 此の頃、やお文化協会の見学旅行にいきますと、何だか私が紀行文を書くような、空気になっています。誰が定めたとでもなく、私が申し出たわけでもないのですが、たった一度書いた惰性で、ずるずるっと……。

 同じ人間、ましてたいした文才のあるわけでもない女が、綴っておりますと、同じような文章の流れになります。それでは読んで下さる方に、大変失礼だと思うのですが、何かしらやっぱり私の、役目みたいな気もしますし、さればどう変化させるべきかと、とつおいつ老化頭をしぼってみても、一向に若返る筈もなく、いい智恵も浮ばず、変りばえせぬまま、又々馬鹿々々しい一席にて、まずは、高座を相勤めることにいたしましょう。

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 昭和五十五年四月十二日(土)十三日(日)十四日(月)二泊三日、信濃国は一ノ宮諏訪神社の、御柱(おんばしら)祭り参拝及び見学として、大型バスに今度は珍しく、二十七人か二十五人か二十三人か、出たり入ったりの大人数?で出発。バスが大型なので、やっぱり車中は例の如くちらりばらり、いつもは運転手さんだけなのですが、車中、御夫妻組が何組か、新婚気分で乗っておられたので、車の方も運転手さんと女性ガイドさんがツインで乗車、やさしい声で窓外の説明をして下され、少しは賢くなったような気がしていたのですが、悲しいことに耳が二つもあって、片方に詰をしておかなかったばっかりに、すっかり通り抜けてしまったことは、返すがえすも残念なことでございます。

 山一つ越えて醍醐の花盛り

これはガイドさんの説明で、通過道中の地名の場所です。醍醐は桜満開。

 内津(うつつ)峠岐阜美濃境桃の花

 桃の彩左右にわかつ高速道

岐阜と美洩の国境内津峠は、バスが桃の花の中をかきわけて走っているような恰好で、桃の精が現れたら、乙姫様か、かぐや姫、十二単衣の平安貴族の令人か、はた又今映画の主人公額田王、きらびやかなそのかみの女人ばかりが浮んできます。ところが現実には金色の観音様が忽然と、桜の花の上に現れて桃の精は、雲散霧消。

 虎渓山の平和観音花の上

 (注 俳句は下手ですが、説明のかわりに)

 八、四九〇メートル、世界第二の日本一長い恵那山トンネルをくぐり、次は六六〇メートル網掛トンネルを出ると、いよいよ山の中の国。

 あらあらどこで昼食をしたのか忘れてしまった。どこかのドライブインで持参の弁当、大阪は西区川口町「一富士」のお弁当です。

今迄あちこちのドライブインなどの、昼食を戴きましたが、今回持参の一富士のお弁当程おいしいお弁当は始めて、味の煮ふくめといい、その甘さ辛さといい、堅さ柔らかさ、ご飯の量、何から何迄、やっぱり食い物は、食い倒れ大阪やなあと思ったことです。

 唯、あざやかに咲いていた真黄の蓮翹と、この味だけは、これを作った人々の誠意と共に、忘れられない舌の感覚です。

 先ず最初に、バスから下車してお詣りしたのは、信州駒ヶ根、宝積山光前寺、二万二百余坪の境内を持ち、善光寺につぐ大寺だそうです。門前に六十一年目庚申の年の御開帳と大書され、私共は幸にも、生涯一度会えるか会えないかも分らない、その六十一年目の、御開帳に出くわせたわけです。

 如何なる仏のお導きにや、秘仏不動明王の開扉された御手よりのばされた、白布にふれて、お不動様の利剣に煩悩の悪魔を払い、文化協会の前途をお祈りしたことです。光前寺の参道は、年を経た杉並木が続き、その石垣の隙間には、全国にも珍しい光り苔が、淡い緑を光らせています。

 三解脱悟る山門菖蒲の芽

 石垣の狭間に朧や光り苔

霊犬・早太郎の伝説、西方御来迎を摸した石組庭園など、語り草はつきませんが、長くなりますので又の機会に。

 野麦峠越えて岡谷の春蚕哉

 春冷えや糸繰る岡谷蚕糸館

野麦峠は帰途に回して、次に入ったのは岡谷蚕糸館、日本に一ヶ所しかないそうです。

 土曜日午後の休館を、特に開けて戴いて入った入口に、お鍋に満たされた水が湯気を立てています。

聞けば私共の到着が一時との話で、係の人を三時迄特別待機させて、繭の糸繰りを見せて下さる予定だったそうで、私達一行がついたのは四時でした。繭は熱湯に漬けておくと腐るそうです。

 私は見たことがなかったので、

とても残念でした。あの小さい繭から、どうして一本のくもの糸のように細い、生糸を引き出すのかとても不思議で、神の仕業のように思えてならないのです。

 明治五年、四条繰繰糸機は、日本製で一台七十銭、フランスより輸入の多条機は、一台二千円、とてもそんな大金がないので、国営として三百台購入され、それにて生産された絹糸を欧州へ輸出、日清日露の両大戦の軍資金は、この生糸でまかなわれた由、野麦峠を越えた幾多婦女子の、か弱き腕で支えられたのだと思うと、感無量の思いがしたものです。

 その細くふくよかな女の手が、日常の生活にとけ込んで、社会を動かす大動力となっている、偉大さを思います。

 夕、たそがれ時、諏訪湖ロイヤルホテルに到着、花の雨しきりに降る。

 宴会のあと、お諏訪太鼓を聞く。

当会専務理事伊藤氏が故郷にて、この太鼓の育ての親の由、宗匠小口大八氏腹掛け姿にて挨拶され、特別出演、飛竜三段がえし、諏訪雷(いかづち)、流鏑馬(やぶさめ)、雪おろしなどなど数曲演奏、テレビで聞いているのと、現実に聞くのと、そのスケールの大きさ、その太鼓の津波のようなとどろき、丁度外国の鐘と日本の吊鐘、打楽器と太鼓の違い、日本の鐘が地を這って腹にとどくように、太鼓は地上を伝って心臓にこだましてきます。

 お諏訪太鼓三段返し春の宵

 花の宿血潮にこだます諏訪太鼓

諏訪太鼓

十三日御柱祭り。

 バスにて諏訪下社春宮、秋宮に参拝、祭神は二月一日より七月三十一日迄春宮に、八月一日より一月三十一日迄秋宮に、遷座されますので、唯今は春宮におわしまします。神前左右に直立する御柱。この御柱祭りは、七年に一度申寅の年に行われる、日本三奇祭の一つで、信濃の国一之宮、諏訪上社同じく前宮、下社春宮秋宮の四社に、それぞれ四本計十六本の御柱を、上社は八ヶ岳の社有林から、旧十八ヶ村、下社は東俣国有林から、二市一町、即ち五万世帯氏子の総参加によって、曳き出されるのです。

 御柱は、丈十六メートル、周囲三メートル余の樅の大木で、神殿御造営のかわりとして、四隅守護、結界の役目を持ち、千二百年の長い伝統ある神事だそうです。

 私共は、この山を降りる御柱の曳行と、四十度の坂を落ちる木落しの壮観を拝観する為、昼前より崖下の道のまだ下を流れる川の、洲の最もいい場所に陣取って、待ったのですが、まだ時間があるので、曳行の現場へ。

 御柱曳くや木遺の霞より

 杉の花樅のみ柱太太し

オンベ(御弊)が揺れて、木遣音頭が霞より聞えてきます。木遣って、頭の天辺から出ているような、随分高い声で、中天より空気をひき裂いて耳につんざきます。

 えんえん何百メートル?位の太い綱が二本、その綱に小網がつけられて、音頭をたよりに小網がひかれます。いささか私も曳きたかったのですが、他所者の野次馬は手を出しかねたことで、今残念に思っています。

 川原に帰って昼弁当を使っても、なお待つこと久しく、曳子が降りてきて、崖の両端に並んでも、御柱はなかなか見えてきません。

 こうして又、半時間も待ったでしょうか、何回進軍ラッパが鳴っても、花火が上っても、慎重に慎重に事故のないことを願って、

 山降る神の柱や春の雨

 「あっー」と、三万の大群衆が声をのんだその一瞬、御柱は、天龍の天下るが如く、大蛇一閃地を蹴る勢いに似て、すべってしまっていました。数人の人が転んでいましたが、無事だったようです。

 雨が降ってきたのですが、道が通れませんので、次の一番大きな御柱の曳行も見ることになり、すぐ曳子さんがおりてこられたのですが、又々一時間も待って、途中綱が切れたりしながらも、人々の緊張が極に達した時、「あっ」、又綱が切れて、二、三人の人が崖に転がったのです。早くよけないと危い、皆そう思ったでしょう、そして御柱がおりてこないことを、ここ迄心に念じた時、御柱は人を乗せたまま、不思議にそろりとさりげなく、下ってきたように見えました。それでも木足は早く、目を覆って無事を祈った甲斐もなく、一人二人は亡くなられたようです。

 私は血流が止ってしまったように、この場面ばかりが、頭の中にとぐろを巻いて、いつ迄もいつ迄も忘れられなく、雨に濡れながら大群衆にもまれながら、歩いたり止ったり、首すじを伝う人の傘の雫に身震いをしたり、しながら、バスの出迎え場所迄、六キロの道を、二時間も遅刻して帰りついたのです。

 地元の人達はいつものことなのか、何の事件の影もなく、さっぱりとしたお祭り見物だったようです。

 花の雨諏訪湖は空に続きけり

 雨の夜や諏訪湖ふち取る春灯

十四日

 雨の為予定を変更、高島域別名浮城登城見学

 柿葺の諏訪の浮城春の雨

 春昼や黒鳥赤き嘴を寄す

 諏訪一ノ宮参拝、昨日見た御柱二百年を生きた樅の大木は、枝葉を落され、丸裸になって山を降り、神の木となって、今眼前にそそり立っています。十二トンのこの御柱も、昨日見てきた修羅の現場を、通ってきたのでしょうか。

 寒々とした裸の木肌を、春の雨が伝っています。

 逝った人の涙か、それをいたむ御柱の涙か、はた又総てを失った御柱じたいの涙か、と思ったことです。

 法華寺へ十間廊下春の雨

 法華寺は荒れ果てて、今洩るものは春の雨、吉良上野介の子義周が、高島城に流され、ここに葬られています。

 最後にお詣りしたのは地蔵寺、

高島城の鬼門除けとしてつくられた、曹洞宗の寺院で、回遊式庭園があり、奥まった所に、曽良の碑があります。皆々傘を傾けて、その俳句を読んだのですが、完全に読むことができなく、

 春の雨曽良の碑よみなやむ

帰りの車中本を読んでいましたら

 心せよ下駄の響も萩の露 曹良

と、でていました。

 みじめな自分の俳句をみんな消そうかと思います。

 ホテルに帰って昼食、終日雨に降られて、それでも定められた時間に、八尾に無事帰りました。

 車中居眠りしながら、過去何回かの見学旅行を、回想してふと思ったことです。

 飛弾の高山は、魂を後生大事に抱えている町。

 木曽馬籠・妻籠宿は、昔ながらに生きていて死んでいる町。

 倉吉は眠っている町。

 信濃国諏訪は祭りごとに、死人を出しながら生きている街。

 さて八尾の町は、お逮夜的庶民の街かなあ。

 それぞれの街に生活している人間とは、何か業の世のいとしさがあると思えるのです。

 長々と読みつづけましたお粗末の一席、これにて終りといたします。 チョン。 五五・四・三〇


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