やすらぎの古里

河内西国巡礼記 十二

  山野としえ


 昭和五十七年六月二十日 日曜

 入梅中だというのに余り雨が降りません。西国巡拝第四日目の今日も、曇り空ながら時々晴、暑い日になりそうです。

 相変らぬ同行者常連の顔が揃い、時に数名の入れ替りあり、又病気や家庭の事情ができて、参会できぬ方もあるなどして、先の河内飛鳥十五カ寺から引き続いて一回も休まず、老齢痩身の折れもせで、お詣りさせて頂けるのも、神仏のお加護の賜と心に厚く感謝を申し上げております。

 バスに乗車しますと、早速ご案内下さる奥野和上様が、皆に新しい観音経の本と、輪袈裟を持参下され、私は生れて始めて、この袈裟なるものを首に掛けさせて頂きました。何かこの袈裟をかけますと、信仰一途の清浄な人間でなければいけないような、くすぐったい思いが、心を横切ります。

 何せ私はいたって修養のできていない、人間臭い、仏様より遥か遠い、下物の女なのでごぎいますから。

 バスが北向いて出発すると、いつも北ばかり向いて走っているのと、絶えず錯覚しているような女なので、どの回の時も北向いて走っています。

それから観音経の解読と続経のお勉強がありました。経といえば、これも阿呆の一つ覚えの心経しか知らないものですから、この観音経は、私の使い古してくたぶれた、老舌をかみそうなお経で”念彼観音力”というところだけが上手に誦せる所?

 まあこれだけでも覚えておこう、と、一人自分の胸にこたえて合点したのです。

 一番始めに詣りましたのが、

 第二十一番磯長山叡福寺(南河内郡太子町)

 かつて飛鳥十五カ寺で参拝した寺です。

 人呼んで上の太子。日本で唯一つ、三骨一廟と呼ばれる、聖徳太子と、御母間人(はしひと)妃膳(かしわで)夫人のお墓のある所、奥野和上曰く

 「聖徳太子はお住居の斑鳩(いかるが)から、政務の為、飛鳥へお通いになり、権勢欲の強い蘇我がいるから、飛鳥を留守にできず、好きな河内の土地へ、足をのばせられなかったので、死んだら河内に葬るようにと遺言され、お三方相ついで亡くなられたので、この河内の磯長に葬られたのです」と、

 ご本尊、聖如意輪観世音様に観音経奉納、法語、篤敬三宝、和上さんのお口を拝借すれば、たちどころに名解説が、立板に水なのですけど、愚婦の私では、三宝即ち仏法僧、仏様を篤く敬いましょう。ってところです。

 ”知らぬが仏”という諺もあるように、余り意味を知らないほうが有難いようです。私もなまじっか知ろうとは思いません。


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