萩紀行に寄せて

山野としえ

萩市全景

昭和五十六年四月十一・十二・十三日(土・日・月)

やお文化協会℃蜊テ、萩市及び津和野見学旅行会の日です。

 桜の季節とて、毎年やゝこしい天候ですが、今年はとりわけ寒暖の差はげしく、降ったり降ったりの菜種梅雨なのです。

照る照る坊主を作ろうか、それともTさんに聞いた、おにのふんどしと半紙に書いで、台所に逆さまに張っておこうか、と迷いつゝ急用にばたばたして、何もしておかなかったのに、出発は晴天になりました。

 皆さんの精進のよいニコニコ顔に迎えられて、履き物を脱いで乗る、豪華なバスの座席に落着いたのです。いつも、しがない兎小屋に住んでいる私は、シヤンデリヤまばゆい絨毯(じゅうたん)敷きのバスなんて、今日始めて乗せて貰ったのです。

 長いこと、このシヤンデリヤを眺めていました。

窓の外にも、青空をバックに、このシャンデリヤの影が、又変った七色の光彩で、明滅しながら、絶えずバスと共に走っています。

膝の上には、炊き立てのご飯を握って持ってきて下さった、人の心の暖さがご飯の温みと一つになって、じわっと膝から心へはい上ってきます。

 いつも朝寝坊の私が、七時出発のバスに、食う物も食わずに来るであろうと、持ってきて下さった人の情、口先で感謝の言えるものではありません。しみじみと有薙いなあと思ったことです。

 さて此の度の萩行は、昨年同じ月、同じ日に諏訪へ行ってから、定まったものですが、それより少し遅れて、NHKの朝の連続テレビ小説十月より放映予定の「虹を織る」、の女性方言指導者として、やお文化協会理事≠sさんが指名され、その彼女が萩出身なのでにわかに萩行案内には適役の形となり、ますます楽しい萩行きの、お膳立てをして下さる結果となったのです。勿論、彼女と彼女の友人とが、私の座席のうしろにいられます。

 私の前の座席には、二人の恰幅のいいご婦人が、少し窮屈そうにそれでも離れないで至極仲好く並んで腰掛け、その通路の隣りにはこれも上品な中老紳士が掛けておられます。

このお三方は、私のファンの方で、此の度始めて同行して下さったのです。

ところがこの二人のご婦人を、うしろから眺めていますに、実に旧知の如き仲睦じさで、いま初めてといった様子には見えないのです。

 「あのう!以前からのお知り合いなんですか。」とおそるおそる尋ねますと、

 「いゝえ、先生のご本の出版祝賀会に出席させて貰って、同じ卓に隣り合わせに腰掛けた、というご縁です。」

 「まあ!それにしては随分仲がよろしいね。」

 「ほんまに、ウマが合うというのですか、二人ともちょっといける口ですので、もう二、三回も飲みにいきました。」

 「こちら、私より歳上ですので『親びん』私は『小びん』と呼び合う仲で、これも先生のお蔭ですわ。」ともう一人の若い方、

 世の中って仲々味のあるもので、神様もこんな器用なことをなさいます。

 車は一路、中国自動車道をひた走り、客は二十五名、運転手さん二人、若いスチュアーデスさんお一人。

 「朝のモーニングコーヒーは如何ですか。」と言って下さるユーモアたっぶりの、ほがらかな可愛い女(ひと)で、乗ってる客は優等生、若いサービス女性は、ユーモア生、中老男女を、長時間のバスの中、退屈させず遊ばせて下さいます。

 木々は赤ちゃんのうぶ毛の如き新芽を、チラつかせ、その中を、散り急ぐ桜が色どり、白いこぶしの花が点在し、快適なバスと、楽しい人と人とで、外の景色を見るのはサラサラと。広島県千代田で中国自動車道は行き止り、そこから旧道に入り中国山地を縦断、日本海側の浜田市へ出て、海岸添いに四時間半、目的地萩へ着いたのです。十時間の長旅の末。

 ようやく萩へ着いて、旅装をといたのが、越ヶ浜に臨む楽天池≠ニいう観光旅館です。

通された部屋の縁に立って、一枚のガラス障子をくれば真下は海、ちょっと首を出している岩の頭に白い波がそよろそよろと遊びたわむれて、他は一面の木綿縞を画いた静かさです。

でも何故か、海に招かれている感じがして、ガラス戸をしめたのです。真向いに見える丸い形のいゝ山は、音に聞えた指月山≠「つも、Tさんの口から語られる、母校卒業生の指月会、の象徴の山。

成る程、Tさんが、ふるさと萩を語る時に、何回ともなく聞かされ少々うんざりしながら、焼き餅の種になる山がこれか。

 「いゝ形だなあ。」

一人胸に答えて、こんな故郷を持つ彼女を、つくづく又羨ましく思ったものです。

夕陽は右の島影に沈み、朝日は左の島より登る。

天然の大岩風呂に疲れをいやし、大食堂は三方海に面して、先の夕陽、朝日を拝むことができるのです。

 しかし、この安らかな、豊かな静かな景色を味わわせて貰えたのは、控え目で出しゃばらず、それでいて、何かとよく心づいて下さった、萩女性のお接待役さん達です。一つの景色を引立てるのも、一本の木を生かすのも、そこに住む人の心が添わねば、生きるものではありません。

総てのものは、それを用いる人によって、生死を左右されるものだと思います。

同室したファンの女性二人、話せば話し合う程に、女社長といった貰禄と恰幅をあわせ持った人、私など、とても足元えも寄れぬ、バイタリティの持ち主です。

如何なる神のお引き合せにや、と思わないではいられません。

更に物静かな、やさしい夫人。

 「こんな夫婦になりたいな。」

と眺める程、何とのう仲の好い、ほゝ笑ましき老夫人。そして最も、がちゃ婆々の私と五人、寝入りたくない程楽しい二晩だったのです。

 二日目、七時起床、余り早く起きる人がなかったのでやれやれ、

 「小びん」と「親びん」の仲のいゝこと。

 ロビーに降りると、Tさんの肝煎りで、本日萩市観光を案内して下さる、萩一番の物知り、文化財審議会々長田中助一先生が見えており、早速車に乗り込みました。

 海岸通りを、狐島、中ノ台、鶴江台の島々を眺め、常に指月山が明滅し、

 「萩は、松本川と橋本川の間にできた三角洲で、この萩を守る為の縦横に走る運河は、一大土木工事でして、狐島は日本で一番小さい火山島、砲台が作られていて、その反射炉を作った時できた煙突が、この萩市のたった一本の煙突です。鶴江台には関所があり、お舟倉は救米倉の役をしとりました。

近江八景になぞらえた、何何……女台場……萩城跡、志都岐山」ここ迄はバスの中の説明、これよりは、田中先生お歳のわりに健脚で、我われ軟弱組は、いっかな追いつけず、絶えず落ちこぼれがち、桜ふぶきの中、「明治七年天主閣解体」幕末中央政権日浅く、それこそ中央への落ちこぼれ武士の反乱を恐れて、城解体と。

毛利家三百年の城を、生きながら解体とは、何と勿体ないことよ。

福原家一万一千石の書院、梨羽家茶室、花江(はなのえ)茶亭など城の内にあります。

城門前には、厚狭毛利家萩屋敷長屋が全長五一・五メートルいの長大な、国の重要文化財の長屋です。式台あり、中間部屋あり、中は何室かに仕切られています。

萩は夏みかんの多い所で、大きな家の中などにも栽培され、全市で三十万本とのこと、そんな特に、口羽家の古い長屋門がでんと移築され、一千拾八石八升二合取りの寄組(よりぐみ)だそうで、その前の道の向うは鍵曲り、Tさん曰く、

萩の沖合に浮ぶ島々

 「こゝよ、いつも佳代さんが叔父さんと歩いたりして撮影した道は。」

見覚えのある道だなあ、とうなづく、石の乱積みに瓦を葺いた塀、土塀、平瓦を挟んで土と塗り固めた塀、蔦のからんだ塀、どの塀もどの塀も、中は見事な大木を囲んだ植林、緑いっぱい。

萩市には、「緑保存条例」という定まりがあって、無闇に木は切れない由、条例で守られている、萩の木は幸だなあとつくづく思います。

平安古の松原も、大きな松が枯れずに、曇り空の下煙るが如く、姿なき古城にむせぶが如く、続いているのです。

 霊椿山大照院へ参拝の長い道すがらも、片側は川、片側は下枝を払われた桧が押しあって続き、白いタンポポや、すき通ったつくしが生え、落ちこぼれがはぐれないように、べーちゃんや、のぶさんがついてきて下さり、時にはタンポポの茎笛を吹き鳴らし、つくしを摘んで、目近く見せて下さるやら、やっと山門に到着、おびただしい燈篭の数に、歴代毛利当主の絶大なる権力を見せつけられた思いです。

この寺は初代秀就(ひでなり)公菩提の為、二代綱広公が建立した臨済宗の寺で並び建つ燈篭の奥に、石の鳥居が建ち、そして玉垣に囲まれた五輪塔二基が、妻の方がやゝ小さく並んでいます。どうしたわけか、この大照院は、初代、二代、四、六、八、十、十二代と偶数代の御夫妻の墳墓なのです。

 田中助一先生曰く、

 「私が中学生の時代頃迄は、門から中へは、はだしでなければ入れなかったのです。」と

初代秀就公墓前の両側に殉死者七名の墓、殉死者の家老梨羽への殉死者一名、此の後、主君への殉死は禁止されたようです。

殉死者の中に二十四才一人、二十五才二人、二十六才一人、三十才代二人、あたら有為の人材、悲しい掟があったものです。母親は血の涙を飲み込んでいたのではないでしょうか。

 正午、夏みかんの花の歌のメロデーが流れて昼を告げてくれました。有名な明倫館を通り、松の緑を映す水練池を横目に、今度は東の護国山東光寺へ、萩藩三代毛利吉就の建立、黄檗宗で総門、三門大雄宝殿と続いています。

今はどの建物も古色蒼然としたたたずまいで、桜の花びらの散るのも、ひとしお物の哀れを誘います。

灯篭の並ぶのも同じ、石の鳥居も同じ、唯、墓石は五輪ならず、大きなひらたい一枚石に石の屋根が彫り出され、夫妻相並んで、三・五・七・九・十一とこちらは奇数の代の墓所となっています。

何代目かの夫人が愛されたという、寿光椿が、ひときわ赤い心のまゝを、咲き盛っています。

 幕末の碩学、長州志士の心の親、松下村塾、松陰幽囚旧宅、松陰神社、生誕地、墓所、歴史館、花月楼などなど、松陰一式を見学。

 みかんの花は県の花

 椿と萩は市の花

 とことんやれとんやれな、は作者品川弥二郎、の生誕地。

国木田独歩が住んだ家には、現在Tさんの従姉妹さんが住んでおられ、青木周助旧宅には、今日案内の田中先生が住まわれ、古い太い椿の木など、このあたりの木はすべて太い・古い木です。木戸孝允生誕地、

 江戸屋横町、びんつけ屋

 伊勢屋横町、呉服太物屋

 菊屋横町、萩市長菊屋家住宅

この辺の道巾は狭く、貸自転車、一時間百円がウロウロ、少々足手まとい、乗り捨御免の由ですが、乗り捨られては、何時間乗ったか分らないし、おかしいなあと頭をかしげたが、他所者はそれ迄、

これにて田中助一先生と別れ、一同楽天池へ御帰館。

 あゝ疲れた。

この個性的な萩市に、萩八景なんて、近江八景の借り名などつける必要なんかないと思います。

近江八景は古えより人口に 膾炙しそんな八景の受け売りをしなくても、萩には萩の美があり、それを息づかせている古今の人材が、今もなお尾をひいて生きている。と私には思えるのです。

松下村塾

 十三日、また又早起きして津和野を指して出発、楽天地主人、よき従業員の皆様に送られて、暫らく走ると、車はUターン、あら道を間違えたのか、と思ってると、楽天池天鵬山窯場へ、見学をしたり買物をしたり、おまけに土産まで頂戴してやっと、名残りはつきせずとも。

 津和野では二時間の自由見物、先づ、覚皇山永明寺参拝、桜吹雪に足踏みまどう閑寂な道を登り、小じんまりとした萱茸の本殿に礼拝、徳川千姫を、炎の大阪城より救出しながら、その千姫に嫌われ失意のまゝ死んだ坂崎出羽守の墓が、うらぶれてひっそりと建ち、森鴎外の墓、何せ案内人のない初めての旅人の我ら、大切にされて太り過ぎの鯉を眺めたり、芽菖蒲を見たり、多胡家老門、いつも絵葉書で見ている藩校、民俗資料舘、養老館、土産物店をのぞいただけで、時間が通り過ぎ、誰かさんのように、タクシーに乗って走ればよかったと、思ったことです。だから、城址の方は全然見物せず、それでも何となく満足、バスに乗って三日間、雨にも降られず、八時半過ぎ無事に八尾へ帰着、出迎えて下さった方に、荷物を助けられたりして、行きから帰り迄、総て人、人、人の出合いの和に、旅の情緒を、一層濃やかに、暖い思い出として、終世の心の光となるでありましょう。三日問の短い萩行で得た最大の幸は、人その出合いにあったと思うのです。

終りに「虹を織る」の最終回の言葉を掲げます。

いつも今日から始まる。

 「追記」

 余りの謙遜は傲慢と壁一重、だそうです。だから今度は黙って俳句を、列記いたしておきます。

シヤンデリヤ輝くバスや春霞

越ヶ浜木綿縞画く春の波

いづこから見るも麗か志都岐山

白たんぽぽつゞく三門大照院

古り寂びし山門落花を通しけり

レモン酒やはねる鯛の尾生き造り

白魚の躍りに筈をためらいぬ

花びらを踏みつゝ津和野の永明寺

臨月のお腹に花の散りかゝる

千姫に花冷え哀れ出羽の墓

旅に出て家の花には会わぎりき


総目次、