河内飛鳥古寺霊場十五カ寺巡拝記

山野 と し え

  (二)

 昭和五十六年十月二十四日

  土曜  晴

台風二十四号が三陸沖に去って、河内平原の花野に秋気爽やかの好季、河内飛鳥古寺巡拝の二回目は、この上なき好天に恵まれ、総勢二十九人、今日参拝する上の太子の電話の局番と同じ、十数年も以前、参拝の折、叡福寺の大黒さんに、「二十九という数字は福と覚えといて下さい。」と、教えられたひと言で、今だに覚えている、芽出たい数字なのです。

 その福の人達を乗せたマイクロバスは、八時半快晴、露寒の近鉄八尾駅前を出発、いつもご案内をして下さる、勝軍寺奥野俊雄師の第一声、

 「本日参拝予定の明王寺は、ご開帳のため、外の住職も手伝いに出張していますので、『午後にしてくれ』とのことですから、今回は特別、河内西国霊場第六番、法雲寺へ先に寄ることにします。」

大宝心法雲寺

 車は北へ走っていると思っていたのに、何の何の、着いた所を地図を広げて見れば、南河内郡美原町、太陽の温もりの唯中、方向音痴もいいところ。

 境内は広く山気浄し、この寺は今より三〇九年前の、わりあい新しい開山で黄檗宗。本堂へと導く敷石は、四角い石の角繋ぎ、遠く眺めると魚の鱗型、ああ黄檗宗だなあとわかります。

 本堂は三室に区切られ、正面阿弥陀如来、この如来を取りまいて一千百十一体の小如来、右釈加如来、左薬師如来、それぞれ合せて、三千三百三十三体の仏像が安置されています。その前に立ちて、先ず心経を誦す。

 この寺は元長安寺と称し、弘法大師が開き、後の法雲寺全盛時代には、大伽藍を有し、萩藩主毛利公の菩堤寺、東光寺開山の本寺として世に知られている由、今年春、やお文化協会主催萩二泊旅行の折案内して下さった、田中萩郷土史家のお話に、

 「八尾の方に黄檗宗の法雲寺?とか申す、萩ゆかりの寺があるそうですが、ご存知ありませんか。」と、

 「知りまへんなあ。」

 「一度調べて下さって、分ったらご通知願えますか。」

 「承知しました。」と

手帳に寺名を書いておられた男性達。

 「そんな寺あるんか、知らんなあ。」と、一同口々に、自称やおの文化人?たじたじの体だったのです。奥野俊雄氏がご同行だったら、いっぺんに分ったろうにと、今残念に思っています。

 この時、大きな魚の魚板の前にて、住持曰く、

 「魚は水の中でも、寝ても起きても目を開いています。人もその心の目を常時開け、という意味を込めて、魚板は叩かれるのです。」

 なるほど、ごもっとも。鱗を落して心の目を開かせて貰った心地、有難し、またまた心で魚板を作って吊したしと思う。

 庭の手入れよし、太き樟並び立つ中を、天王殿、開山堂より中国風建築の山門を出る。

 不許葷酒入山門$ホの立札を後ろにして辞去。

 七墓詣りを七度して、そしてお参りする三太子、上の太子

磯長(しなが)山叡福寺

 今年夏、七墓詣りをした七人の内、五人本日も同行参拝の縁を持つ。南大門を一歩踏み越ゆれば、先ず目に入る金堂、大屋根の棟の上に鳩が一羽、深き藍色の空を流るる白雲のひと片を、じっと眺めているように私には見えるのです。

人もまた、あの鳩の如く孤独ではないかと。

 その右奥深く緑を背負いて、三段の登り屋根を持つのは三骨一廟、聖徳太子と御母間人(はしひと)妃膳(かしわで)夫人のお墓。

 先ず金堂にて、ご本尊如意輪観世音菩薩の前に、つつしみて心経を捧ぐ。艶(なまめ)かしきご本尊のご姿体に、ややもすると人間本来の俗心が、ニヤリと頬をゆるめさせる。

しかしこの女体は、不動明王と愛染明王の炎と刃の忿怒相に、敢然と守られておわしまします。

 御廟参拝、右に廻っていくと、見身大師堂(親鸞上人)、良忍融通念仏宗祖、聖応大師こもり堂、日蓮上人ご参籠所、弘法大師御影堂と続きます。

 聖徳太子は人も知る、日本仏教の始祖、その後に続くもろもろの諸大師達が、太子の徳を感得せんと、墓所近くに参籠、修行された跡が偲ばれます。


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