河内飛鳥古寺霊場十五カ寺巡拝記

山 野 と し え

龍地山弘川寺

 歌人西行法師終焉の地、段々畑の稲は、実入りよろしく葉よりも低く頭を垂れて、その土手土手には紅の曼珠沙華が少し盛りを過ぎた私のように色褪せて群がっています。

 口の悪い悪太郎が、私の前の座席でそういうのです。盛りの頃は、かがり火を燃やす如く、美事であったろうと思われます。私も同じように?

 静かな寺、名峰葛城の麓にあって、役の行者開基、やはり修行の寺であります。本尊薬師如来に奉経、両面庭に面した大座敷で昼弁当を開き、金剛寺より頂戴した地酒を一同つつしみて一掬、天然記念樹かいどう桜や、百年を経たつつじの庭を廻り、裏山の西行墳に登る。

 途中村人に道を問い柿を貰う。

 道問ふに問われし村人柿くるる                 としえ

 誰かが「西行さんの墓をなでたら、少しは賢くなれへんやろか。」と、いう。

 森岡、安田、平井、板谷、山野、かしこみかしこみて、墓とわが頭を交互になでる。迷信もここまできたら、真実のしるしを給わらんか。下山して祐福徳大黒天をまた拝む。欲心深きことおびただし女達よ。お盃一杯の酒の機嫌も美わし。

向原山西淋寺

 以前、天王寺美術館で拝見した、もと西淋寺什物国宝瑠璃碗の、妖しきビードロの輝きを頭に思い浮べつつ、石川の堤の上にて下車、古市の古い市中を歩いていると、船板を張った倉や、両替商銀屋の重要文化財建物など、古い格子の家並の狭い道をたどり西淋寺に着きます。

 この寺は昔、応神天皇に仕えた王仁文学博士の後裔、河内の船氏の造営ということです。

 度々の兵火に遇い、今ようやく再建されたのです。奥野和上曰く

 「船氏墓誌、瑠璃碗共に、この寺の什物であったのが、まごまごしている内に、東京へ持って行ってしまわれた。もっと河内の人間は、しっかりせなあかん。」とのお話、寺の門の左側に五重塔心礎あり、余りでっかいので、ちょっと柵をこえて台の上に登って心礎をのぞいて見る。

 石の重さ二八トン、七五〇〇貫いっぺん見てごらん、このごつい石、どんな五重塔がこの上に建っていたのでしょう。

 中央柱穴側面に舎利穴があり、底部中央に刹≠フ一字が陰刻されています。が雨水がたまっていて見えません。けれど空はうつっています。所がこの石はここへ来るまで、水利記念碑の台石として石川左岸堤防にあったのです。

 この石の隣りに、五輪塔五基があります。この塔石も、高屋城の土塁下より見つかって、復元されたそうで、中央のどっしりと大きいのは西大寺叡尊(えいそん)で、総てこの寺に関係ある住職の墳墓だそうです。寺の和尚さんおっしゃるに、

 「寺の復興と同時に、これらの石が次々と現われて、ぼつぼつお寺にお帰りになりました。勿体ないことでする」と。

 一番終りは中の太子即ち

 青龍山野中寺

 このみ寺は、聖徳太子の開基、蘇我馬子が造営したものです。中世南北朝の兵火に灰燼となりましたが、法隆寺式の礎石が残っています。

 後、江戸初期には再興され、律寺として戒律道場の勧学院となり、身之寮、利之寮。見之寮は沙弥寮として、出家して十戒を受けた少年僧が入り、相之寮、行之寮、体之寮、法之寮は、比丘寮といって具足戒を受けた男子が入寮します。三畳程の小間に炉が切ってあり、二人づつ入寮、ここで三年修業をして、外の寺へ行くのだそうです。コの字形に建てられた一角は院長室で、この室を知事室と呼ばれていたのです。

 どの室にも人の気配はなく、青畳がうそ寒く、覗き込む吾々に、且て修行されたであろう青年僧の厳しい日々の勤めのさまを彷彿と思い起こさせます。

 ご本尊薬師如来に、今日の終りの感謝の心経を捧げ、重文の金銅弥勒菩薩思惟半跏像は、眠るが如く考うる如く、夢見る如く、お厨子の中で、小さきお姿、小さきお手を頬にふれておられます。このみ仏は、台座に銘文があるので有名です。

 そして禅堂のような細長い食堂があり、食事の作法を長々と勤めながら、冬ならば冷えてしまったであろう一汁一菜を、感謝しながら召し上ったであろう光景が偲ばれます。

 裏の広い墓地に、お染久松の墓と、庭園に縁結びの樹齢四百年といわれる山茶花があります。

 夕陽西に傾き、塔の心礎がかげり始める頃、古刹に別れを告げて八尾に向って帰途につきました。


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